未来人さま ~消費主体から生産主体へのつづき~

この往復書簡は、様々なキーワードが交換されたりスルー(後回し)されたりしながら、いつまたからみあうとも知れず交わされ続けるものと思いますが、それに甘えてつれづれなるままに前回の続きを書きます。

実は5月の連休明けに、今の仕事をしてきた私としては画期的な6日間の休みを取り、奈良の室生寺からはじまって、二上山、葛城山方面、吉野の山から熊野古道にかけての旅に行くことを決めました。

それで丁度ETCの割引と政府の購入助成金をあてにして、車に私もETCを取り付けようと思ったのですが、助成制度枠が拡大されたとのニュースがあっても、商品が市場になく、現在では予約すら受けてもらえない状態なので、5月中旬の旅行のETCの利用はほぼあきらめています。

そんな矛盾を感じているところに、今度はエコカーなどへの車買い替ええの助成制度がまた出されたとのニュースが入ってきました。

とことん、まだ余裕のある生活者への助成ばかり打ち出してくる政策に、ほんとあきれ果ててしまっています。

ETCをあてにしていた身でありながら、もう間に合わないとわかったら、こんな無駄な助成には意地でも乗ってなるのもかと見栄を張っている私でありますが・・・・

どう考えても出てくる施策はどれも、市場の消費刺激による下支えばかりで、生活破綻の危機に瀕している人びとへは、まったく目が向いていない感じです。求められる産業構造の転換を促す施策もほとんど見られないまま、従来のばら撒き予算の延長ばかりが出されてきます。

これらのことからも、今の政府は、市民を企業の生産物の恩恵をうけるだけのただの「消費者」としか見ていないことがよくわかります。

私たちが求めている内需の拡大とは、このようなもののことを言っているのではありません。

企業の生産物を買ってくれる外国の市場が縮小したから、国内で消費してくれるようにもっと市場や消費者を刺激することが、内需拡大につながるものとはとても思えません。

ここからはわたしの個人的な発想の表現になりますが、内需拡大のためには、「消費者」的な市民の購買力を高めることよりも、「市民」が「消費者」的な立場よりも「生産者」的な立場に徹するよう変化していくことこそが、真の「内需」拡大、強い国民経済を築きあげていく条件であると考えます。

この「生産者」としての市民の姿こそ、『21世紀の国富論』のこれからの時代の社会的富の実態を語るキーワードではないかと思うのです。

会社勤めで得たサラリーを消費にあてることでなりたつ市民生活ではなく、会社勤めにかかわり無く、市民生活そのものが生産的活動であることを認識して、生活を組み立てなおすことこそが、強い社会基盤(経済基盤)を育てるもとなのではないかと思うのです。

私の本職である書店の業務をしていても、つくづく感じるのですが、本そのものを読んでくれる読者を育てる活動はたしかに大事ですが、読書そのものを目的とした読者に頼るよりも、生活上や仕事上の目的をはっきりと持っている人のサポートに徹した方が、実際にはより大きなお金が動くのです。

実際に純粋に本が好きだと読書家を自称しているひとたちよりも、なんらかの自分の専門領域を持っている人のほうが、手段としての読書ではありますが、はるかに多くの本を買い、実際に消化している場合が多く見られます。

よく誤解されてしまうのですが、教育などの現場で読書の習慣化などを目指した取り組み事態はとても大事で、すばらしいことです。そのことは否定しません。

でも、その場合でもただ「読む」ことよりも大事なことを忘れないように心がけてもらいたいものです。

この「手段」としての読書とおなじく、「手段」としての消費こそが、「自己目的」としての読書や消費を上回る力を持っているのであり、「真の内需」拡大の根源的原動力になるのだと思います。

本屋の仕事をしていながら、まったく申しわけないのですが、つい大事なお客さんに対して、そんな本ばかり読んでいないで自分自身の直面している問題に真剣に立ち向かうほうが大事でしょ、と言いたくなってしまうことが多いのです。

少し端折って結論だけ書くと、強い地域社会や国家を築くには、生産されたものの量を増やすことや、それらを消費する購買力を高めることを目的とするのではなく、それらの担っている市民ひとりひとりが、「生産者」「創造者」としての立場で市民生活全体を組み立てなおすことこそが求められているのだと思うのです。

 わたしは『21世紀の国富論』をそのような視点で読み解いていきたいと考えています。

 この間のニュースを見ていて、どうしてもこのことを往復書簡のなかにいれておきたく書いてみました。

 つぎは、また元の挫折していたテーマに戻ろうと思っています。

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未来人さま ~市民は消費主体であるよりも生産主体~

また長く間があいてしまって申しわけありませんでした。
新学期準備の忙しい時期に入ってしまったり、母親が二度ほど入院(軽い病気ですが)することになってしまったり、なかなか書けない理由があったのですが、これだけ間があいた一番の理由は、私のグチャグチャ頭が、自分の欠点ということだけではなく、これからの時代の思考構造にとってグチャグチャ構造がそう悪いものではないのだとおいうことを書こうとして泥沼にはまってしまっていたからです。
どうもこの泥沼は、簡単に抜けられそうにないので、思い切って話題を変えて、『21世紀の国富論』を語る上でのキーワードである「社会的富」の実態に関することを今回は書かせていただきます。
また、うまくまとめられそうにありませんが、つらつらと書いてみます。

これは先日、あるひとと会話していてうまく説明できなかったことです。

現代においては、生産と消費が分離させられていることをあたりまえのように感じているように思えますが、その問題が今の不況打開策を語るときに、さらに矛盾を深めることにつながってしまっているのを感じます。

エコノミストは、この経済危機を脱するには、まず冷え込んだ消費マインドを刺激してやることが大事だという。
定額給付金はそうした意味合いがあるとのこと。

悲しいばかりの発想です。

今の政治の流れは、その悲しい発想を変えることができません。

話のなにがかみ合わないのでしょうか。
発想のどこが違うのでしょうか。

確かにこれまでの経済の発展は、消費の拡大によって支えられてきました。
内需の限界は、外需の拡大によってささえられてきました。

ところが今の世界的な経済危機の現実は、これらの市場の拡大という錬金術が、すでに10年、20年前から破綻していたことを気づかせてくれるものです。

金融工学を駆使してあらゆるところから資本を集めて、実質は先進国内部ではなく途上国の市場拡大でささえられてきた経済発展。

この現実をもっとよく見ておかなければならない。

アメリカの購買力が衰えている現実、途上国の経済発展が鈍化している現実、それらは不況という景気循環の規模の大きなものではない。

数字だけをみても、内需の拡大がいかに大事であるかは誰もが気がつく。

でもそれは消費マインドの刺激で解決できるような問題ではない。

ここからの説明が、どうもまだ整理できない。

突破口は、知恵を出せばいろいろなところから開けるものだろうけれども、これからの時代の「内需」ってなんなのだろうか、といった疑問がわくのです。


 これまでの社会では、「市民」「家庭」は消費単位、「企業」は生産単位としてとらえられ、企業が技術革新の下で一定時間に効率よく大量の「物」を生産し、「家庭」に供給することが「豊かな社会」をつくることになると考えられてきました。

 この「市民」「家庭」を消費の単位、「企業」を生産の単位と考える限り、真の「内需」の拡大は生まれないと思います。

 経済学がとらえる消費主体を「市民」「家庭」ととらえ、企業のみが生産主体でるとする時代は終わり、「市民」、「家庭」こそがまず生産の主体であることに気づいても良い時にきているのではないでしょうか。

 
父ちゃんは会社で働いたのだから、家ではゴロゴロしていていい社会は終わりはじめていのです。

企業はイメージアップのために社会貢献活動を取り入れる時代は終わるのです。

社会科学的な「個人」ではなく、また肩書きや身分や資格で約束される社会ではなく、裸のひとりの人間が、目の前の人に対して何が出来るかが絶えず問われる社会・・・

これは決して能力主義への道ではなく、すべてのひとが生きていくための本源的生命力を取り戻す過程なのだと思うのですが、このことはもう少し詳しく説明を加えなければならないかな。

気が向いたらまた続きを書きます。

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岩坊さま 〜「次元」と「普遍化」について(序)〜

岩坊さんが、そちらでは見ることのできないとおっしゃっていた朝日新聞の夕刊、「たまには手紙で」という「往復書簡」の連載を私が始めて見たのは東京に戻って来た1昨年でした。たしか、その時の筆者が水村美苗さんでお相手は辻邦生さんだったと記憶しています。もしかしたらこの連載の往復書簡ではなく別枠での連載だったのかもしれないのですが。ちなみに火曜日夕刊の現在時の連載は俳優の橋爪功さんと劇作家・演出家の野田秀樹さん、その前はマラソンの増田明美さんと俳句の黛まどかさんでした。
さて、水村さんの文章には、どこか少し儚げな透明感を漂わせながらクリスタルのような硬質な印象を持ったのを憶えています。
水村美苗著『日本語が亡びるとき』は、昨年書評を見た時から気になりつつ、新聞広告をみてさらに気になりつつ、しかしどうにも切ないものを感じてまだ手を伸ばしておりませんでしたが。。。
しかし常日頃、先入観や勝手な印象で物事をとらえてしまう罠には気をつけましょうと言っている身としては、岩坊さんの一押しがやはり「読みましょう」のサインだったのですね。つい先日、入手いたしました。そして思いのほか軽快なエッセイのような書き出しに驚きつつ、私にしては珍しくまだ一気に読んでいません。多分、出だしの軽快さの割りには、中盤以降の筆者からみた歴史的見解の重みとその考察に警戒心(?)が働いているのかもしれません。
実は数日前にここまで書いて、打つ手が止まってしまいました。何故だろう?そこで私はいったい何に焦点をあててこの書簡をお返しすればいいかのヒントを得るために、今日改めて岩坊さんの書簡を再読してみました。
私はこの往復書簡の意味は、「対話」をすることに重きを置かずにそれぞれの思考のプロセスが並列に書き表されて行くことの面白さだと思っていて、それは今この瞬間も変わらないのですが。。。でも、岩坊さんの文中の以下のパラグラフに目が行った時、ああ、私がこの本を手にとることを逡巡したり、警戒心(?)と上記したことの意味がここにあったと気がつきました。
iwabou-san wrote:
私の話は、いつも次元の違う概念が交錯してすみませんが、前回触れた「国民経済学」の実態が把握しにくくなった現代、虚構の上になりたったグローバル化が加速した現代において、これからの社会を考える上では、「普遍化」への一方通行のベクトルから、いかに「個別性」と「特殊性」を保持した発想、あるいは意思をもって「普遍化」のベクトルを押しとどめて、個別・具体性を強化することが、とても難しいことですがこれからの時代は極めて大事なことであると思うのです。

そうなんです。「次元の違う概念」のところに、私が書評を読んで「読むのが切ない」と感じてしまったことを、この言葉が言い表しているように感じられたのです。それは多分、この本の著者の「心の叫び」に添いつつ同時に同じく著者の「思考のプロセス」に付き合う辛さとでも言いましょうか。。。わかりにくい書き方をしていますね。でも今なら書評を読んだ時に感じたことを、文字で書き表せる気がします。ひとことで言うと、多分この本には共感する読者と批判的な読者が拮抗するだろうなという予感です。それは水村さんが小説家である故に、「思考・表現する言葉としての日本語を残す、残したいとする情緒」と、「普遍語としての言葉の流通に対する懸念」のどちらに読者が感応して読むか、ということかもしれません。
そうなってくると書きたいことがいっぱい出てきます!「言葉の覇権」というものが、過去の歴史の「国家の権力」と、現在そして未来に向けての「グローバリズムという言葉に代表される経済の覇権」とについてという切り口もあれば、「話し言葉」と「書き言葉」に関しての精神文化論、言葉を「説明のための意味」と捉えるか「認識を生成していくための貴重な道具」と捉えるか等々。
特に今、私がテーマにしたいとしたらまず、前回の岩坊さんのタイトルでもある「普遍化」という言葉の持つ意味性なのです。書き始めたら、やはり思いのほか長くなりました。今日はここで一旦止めることにします。

それではまた

mireijinより

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未来人さま ~個別・特殊・普遍~

 前回、『21世紀の国富論』がタイトル表現で誤解され損をしているのではないかといったようなことを書きましたが、以前どこかで未来人さんと話したことがあることですが、本書を企画した平凡社のこの編集者が鋭く且つ稀有な時代センスを持った方であるということは、忘れずに記しておかなければなりませんね。
 もうひとり注目している岩井克人さんの著作も、同じ平凡社の編集者によるところが大きいと感じます。
 内容を簡潔に表現することと、購買動機につながる表現の兼ね合いの難しさのようなものがあったことは十分推察されます。
 その不足部分を、少しでも私たちのやり取りで補うことができればうれしいのですが。

 ところで、櫻井よしこさんとはそんなつながりがあったのですか?
テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトの歴代女性キャスターの人選(人選の力プラス、人を育てる番組の力?)でも感じているのですが、評価の定まった有名タレントの起用ではなく、しっかりとした人材を確実に起用できる番組製作者は、いったいどのような人たちなのかいつも興味を持っていました。
 残念ながら、お会いするご縁の無かったご主人のイメージがまた少し湧いてきました。

 前回は、漠然としたイメージのまま「国民経済学」という言葉を使ってしまったのですが、「国民文学」などといった表現にも同様のことが感じられますが、グローバル化が進んだ現代においては、こうした言葉の持つ意味が大きく変わってきているのを感じます。
 実は、そんな視点で、どうしてもここで挟んでおきたい1冊の本があります。

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水村美苗著『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税

 ご存知かもしれませんが昨年10月に出た本なのですが、じわりじわりと評判が広がり、田中優子著『カムイ伝講義』小学館とともにこの間、各方面で書評が出まくっている本です。

 これまでの日本語論というと、どうしても金田一一族や、外山滋比古、大野晋などの国語学者、日本語研究者によるものがイメージされますが、本書は一小説家としての立場でありながら、その豊富な海外経験から、専門家以上に深く鋭い考察に満ちた、実に興味深い本となっています。

 この本1冊でも、『21世紀の国富論』に劣らない多面的な未来人さんとのやり取りができそうな本なのです。
 とても重要な視点をたくさん提起されている本なので、書評が注目しているポイントも評者によって様々です。

 たくさんの興味深い視点のなかでも、この間の書簡の流れで、「国民経済学」から「国民国家」、「社会的富の在り方」などにふれると、同列の問題として必然的に「通貨」や「言語」の問題が浮かび上がり、その延長線上にこの水村美苗さんが本書で指摘している「普遍語」「国語」「現地語」という分類があります。

 これまで世界中の多くの人々にとって、地球規模の世界よりも自分の所属する民族や国家こそが、相対的でありながらも普遍世界でした。

 ところが今は英語がインターネットの力を伴ったことにより、これまでのいかなる言語よりも、普遍語として通用し続ける要因を得たことになってしまいました。それによって水村さんは「国語」や「現地語」の深刻な危機を招くと指摘しています。

 このこと自体は、それほど独自な指摘ではなく多くの人が語っていることなのですが、その指摘に至る水村さんの論拠の展開がとてもすばらしいのです。

 今でこそ英語が普遍語としての地位をもっていますが、第二次大戦前までは、ヨーロッパでは英語、ドイツ語、フランス語が三大言語としてほぼ対等といっても良い地位を持っていました。
 それ以前は、ラテン語こそが普遍語としての地位を持っている時代が長く続いていました。その時代にあっては、イタリア語、フランス語、ドイツ語などは、それぞれの地方だけの現地語にしか過ぎなかったのです。
 東洋においても、漢語こそが普遍語としての地位を長く持っており、日本でもつい最近まで公文書は漢文でなければなりませんでした。

 このように「普遍語」というのは、時代とともに移りかわるものなのですが、こと「英語」に関しては、インターネットの普及とともにこれまでとは次元の違う普遍語の地位を得ようとしているというわけです。
 
 ところが、ここからは私の意見なのですが、アメリカの地位の低下とともに基軸通貨としてのドルの信用が無くなることが確実になった今、通貨に限らず、言語においても同様の現象が起こりうるのではないかと感じるのです。

 多くの場合、「普遍語」としてそれが通用しているのは、その言語が合理的であるかどうか、美しい言葉であるかどうかなどの理由によるものではなく、ただ単にそれが多くの人によって使用され信用されている合理性があるということのみによるのだと思います。

 同じことが、お金についてもいえます。
 
 ドルが基軸通貨としての地位を持っているのは、きっかけはアメリカの経済力の目ざましい発展であったかもしれませんが、金とドルの交換を停止したときから、ドルが基軸通貨としての実力があるから流通しているのではなく、ただ国際決済手段として信用されているからというだけの理由でその地位を保っていたということが明らかになったのです。

 さらにパソコンのOSなども、これと同じようなことが言えますね。

 いかなる分野においても、ものごとは「普遍化」の方向にベクトルが向かっているように見えますが、「普遍」の地位を得たものは、必ずしも「合理的」根拠をともなったものではないということが、わたしたちは眼前に起きている歴史から知ることができます。

 こうした流れで考えると、私は水村さんほどは「日本語が亡びる」危機はあるものの、それが不可避の流れであるというまでの危機感は感じません。 もちろん、水村さんの指摘は、そんな単純なことではなく面白いのですが。

 社会が生産活動によってなり立ち、交換を必然とする限り、あらゆる事柄が共通化といった指向性で「普遍化」していくプロセスは不可避なのですが、かといって個別・具体性が無くなって良いというものではありません。

 「国語」「現地語」は、その大半は他の現地語や国語、あるいは普遍語へと翻訳可能なものですが、翻訳不能なものを含んでいるということが「小説」などの個別性を語る世界でない限り、ほとんど意識されなくなってしまっています。
 たしかに、その拡大便利さや見かけの合理性に押し流されてしまいそうな勢いには、とてつもない抗しがたい力を感じています。

 私の話は、いつも次元の違う概念が交錯してすみませんが、前回触れた「国民経済学」の実態が把握しにくくなった現代、虚構の上になりたったグローバル化が加速した現代において、これからの社会を考える上では、「普遍化」への一方通行のベクトルから、いかに「個別性」と「特殊性」を保持した発想、あるいは意思をもって「普遍化」のベクトルを押しとどめて、個別・具体性を強化することが、とても難しいことですがこれからの時代は極めて大事なことであると思うのです。

 今後も世界各地で起きる紛争の解決を考えた場合でも、国連などを中心とした世界的協力関係は、ますます求められるようになりますが、異なる宗教やイデオロギー間の国際協調をはかるためには、安易な普遍原理を求めることよりも、個別・特殊な事情をまず知り、尊重することからはじめなければなりません。

 そんな指向性の大きな転換が、今はじまろうとしているのを感じます。

 原丈人さんの『21世紀の国富論』も、そんな視点からの提起に満ちています。

 ときどきこの往復書簡で名前が出てくる『アクエリアン革命』も、なんとなく普遍的なテーゼや概念から発想するものではなく、個別・具体性の追求を優先することによってこそ、起こりうるものに見えます。 

 今回のタイトルに入れた「個別」「特殊」「普遍」という概念が、これから各論をぐるっとめぐらせて、また最後にここへふたたび戻ってこれたらと思います。

 交換とともに「個別性」が捨象されていく必然と、 質(価値)を量に換算しないと交換が成り立たない必然に対して、

交換し難さを保持することで「質(価値)」の固有性が保てることが、あらゆる領域でこれから問われてくる時代に突入したのではないでしょうか。

厳しい時代であるには違いありませんが、なんとも楽しみなことではないですか。

今日のところはこの辺で、ではまた。
 

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岩坊さま 〜「タイトルで損した」について〜

「21世紀の国富論」について、まさに私がこの往復書簡ブログをご提案するに至った経緯を言い表しているような解説をありがとうございました。そうなんです。私自身、ずっと平積みになっていた「21世紀の国富論」を書店にいく度に目にしていた筈ですのに、おかしな偶然から糸井重里氏の「ほぼ日」での糸井さんと原さんの対談を読まなかったら、永遠に手にとらなかったなかったと思います。
パソコンの前で笑い転げて、次の日には本を手に入れていました。そして岩坊さんをはじめとする精神文化が近いと思われる方々に「ぜひ『ほぼ日』を読んでから『国富論』を読んでね!」とメール差し上げた全員が「読まずにいられません!でもこの本はmiraijinから聞かなかったら手にとっていなかった!」と全く同様の反応を返して下さったんです。もうびっくり。

原丈人さんほど小気味よく盛大にあのようなご自身発想を実現している方は少ないですけれども、それ以上に普段の仕事領域・文化圏・生活圏が同じような領域にいないために出会う事が難しいとしたら。。。
あっちの領域にも、こっちの領域にも、自分の仕事や生き方を通して同様の未来を構想している人々がいるんだということを、個人のブログで訴えるよりもこんな往復書簡の形で表現できたほうが、ささやかだけれど面白い広がりを見せるかもしれない。。と考えた次第なのです。こうして実現できて嬉しいです。

「タイトルで損した」については私もほぼ同意見ですが、たぶんこのタイトルは編集者からの発案ではないでしょうか。何事か過去の偉大なものに「なぞらえる」ことで「古くて新しい命題を浮き上がらせる」「新しい領域を拓く」「パラダイムを広げる」という手法がとてもうまく働くという事もあると思うんですね。ただ、世代によるのか感性によるのか個々の意識や文化の違いなのかは分かりませんが、それが全く反対の受け取り方になってしまう場合もある。そのことで思い出したことがあるので、極めて私的なことですけれど書いてみますね。
1980年、日本のTV局で始めて「女性のアンカーマンを起用しよう」という英断をした日本テレビ(NTV)が、当時NBC東京支局でオペレーションマネージャーをしていた亡夫にそれを提案し、亡夫は所属していた日本外国特派員協会のメンバーであった桜井良子(櫻井よしこ)さんに打診。その時、桜井さんがそのオファーを受ける気になったのは「日本のバーバラ・ウォルターズになって下さい。」という亡夫のひとことだったということは櫻井さんご自身が本にも書いていらっしゃるのですが、当時はテレビと言えばジャーナリストの目から見れば浅薄なメディア。周りの方々は反対したそうです。しかしその時期の桜井さんにとってバーバラ・ウォルターズはインパクトの強い存在。NBCの「TODAY」という番組の視聴率を引き上げ、大統領であろうと誰であろうと何よりも鋭い持ち味でインタビューしていく。結果日本テレビの「きょうの出来事」を櫻井さんは90年代まで続けるという快挙をなさったわけなんです。この先は笑い話で読んでいただきたいのですが、私が亡夫と始めて出会ったのは83年。彼がNBCを辞めて起業した後です。彼が起業することを決断した事に大きく影響したのはマリリン・ファーガソンの著書「アクエリアン革命」で、この内容はまさに原丈人さんのような存在とも繋がる未来論でしたし、私の周囲の人々も絶賛していた本なのですが。。。お互いの情報を知った後にはじめて顔を合わせた時、最初に言われたのが「日本のマリリン・ファーガソンになりませんか?」だったのです。ただしその時の私の反応は・・・「え?違います。私は誰にもなりたくない」・・・つまり、良し悪し抜きにこれは今回、岩坊さんが書いておられる「国富論というタイトルの是非」に似ていると改めて思ったというわけです。亡夫はそれ以外にも「もうひとつの永田町」という考え方で勉強会をしていたり(今の政治では世の中は変わらないという意味でしょう)、その頃は遠い将来(90年代)に奇縁が巡って結婚することなども想いもよらなかった時期なのですが。

さてさて「21世紀の国富論」にもう一度戻りましょう。「国富論」という言葉から連想されるものの枠組みを遥かに超えた問題提起や諸テーマの解決の手がかり・・・各論の糸口、想像の切り口は本当に様々あると思います。今日は長くなってしまったのでこのへんで。次なる問題提起を楽しみにお待ちしています。それではまた。

miraijinより

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未来人さま ~タイトルで損した『21世紀の国富論』~

 

毎度、「待って」いただいてありがとうございます。

 前回、予告したことについて書きます。

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 私のみならず、多くの人がどうやら『21世紀の国富論』というタイトルが誤解を生みやすいことによるのか、この書名を見て実際に手に取る行為にまで至らなかった例がとても多かったことを未来人さんの話で知りました。

 これはどうも「21世紀の」と大事なことわり書きをしていながらも、多くの人が「国富論」という聞きなれた言葉にイメージが引きずられてしまったことによるのではないかと思います。

 私たちが「国富論」という言葉を聞くと誰もがアダム・スミスのそれを思い浮かべますが同時に、「国民経済学」をベースにした国家論をなんとなく思い浮かべているような気がします。
 これは当然なことなのですが、現代の私たちは、経済知識の有無にかかわりなく、なんとなくこの経済観は古いものと感じるようになっているのではないでしょうか。

 私は漠然としたイメージで「国民経済学」という表現を使ってしまいましたが、主に産業革命以来の近代資本主義は、鉄鋼や石炭、石油などの資源や鉄道、運輸、通信などの基幹産業のインフラ部分を国家をあげて育成してきたベースの上に成り立っています。

 これは資本主義社会の生成発展期において、不可欠のプロセスではありますが、成熟から衰退か、あるいはなんらかの次の枠組みへの移行が始まっている現代においては、このような産業社会をベースに考えることは既にできなくなっているのを感じます。

 現代社会でおきている経済活動の多くは、かつてのイメージのような国民経済の枠で語れるようなもは、いつの間にか限られたものになってしまっています。
 すでに国家の枠を超えたもの、あるいは国家の規制にとらわれないもので新しい動きがたくさん出ているところに私たちはリアリティーを感じています。

 国富論という言葉の延長で想像される社会的富の蓄積は、もちろんいまでも国家の規制は受けながらも、かつてとは比べものにならないくらいグローバルに、またあるときにはミクロのままでも鋭く世界をかけぬけ、ダイナミックに動きまわるもののイメージが出来上がっています。

 大きな政府であろうが小さな政府であろうが、今、わたしたちの周りで進行している経済活動は、国家と一体とは言い切れないたくさんの中央からはコントロールし難い産業によって支えられています。

 
 そうした飛躍があるからこそ原丈人さんは、「21世紀の」という言葉を頭につけた「国富論」が提起されたのだと思うのですが、わたしたちに「21世紀の」というだけの表現からそこまでの想像をはたらかせることは、やはり内容の予測のつかない読者にはかなり無理のあることであったのではないかと思えます。

 社会的「富」の蓄積という問題が、アダム・スミスのイメージした国民経済をベースにしか考えられない時代はすでに終わっています。
 そして生活からかけはなれた莫大な金融的富の蓄積の矛盾は、ようやくいま暴露されましたが、かといって、それに替わる社会的「富」の蓄積をどこに求めるのかという問いへ答えはまだ見えていません。

 この問題解決の手がかりを『21世紀の国富論』は、たくさん示してくれているのですが、このタイトル表現からそこまで想像することは、やはり至難のわざだったのではないでしょうか。

 今、思うと、このギャップを埋める作業、従来の国民経済学からの脱却、国家の役割は残しつつも、国家に依存しない社会システムの拡大、あるいは狭義の社会資本からソフト面や地域風習まで含めた広義の社会資本の提起こそ、この本の大事な主題にもなっていると思えるのです。

 こうした表現にすることしかできなかったことも、異なる場で発表したものを1冊にまとめた構成であることなど、やむを得なかったことも十分想像されるのですが、

だからこそ、

こうした対話が、とても重要な作業になってくるのだと思います。

 このことをはじめに書いて、ようやく各論に入っていけるような気がしました。
 こうした前提でこれからmiraijinさんと少しずつ掘り下げてみたいと思います。

 

 それではまた。

                     かみつけ岩坊より

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岩坊さま 〜「何処」に立ち返るのか〜

前回の私の書簡タイトルは「〜これから何を『待つ』のか〜」でしたが、その次の書簡をupして下さった直後に、岩坊さんからいただいた「継続できない事情が・・・」の深刻なメールによって、文字通りこのブログへの復帰をお待ちする事になろうとは!思いもかけない事でした。その時点でのご事情から察するには「待っても再開できる可能性はない・・・」に近いもので、それは岩坊さんの恣意、気まぐれではないことがわかるだけに、まだ誰にも開設をお知らせしていなかったことをよしとして閉鎖する事も考えたわけですが、、、
一方、損得利害も関係ないこのメディアのつながりから、いったい何ができるのかという実験的意味と岩坊さんの休止理由もまた別のこと。「待つともなく待つ」ことが私の側では可能であったということでもあります。岩坊さんの、諸問題を解決しての復帰をお待ちしながら私のひとり書簡での継続とするか、それとも閉鎖するもよし、と漠然と半年くらいのスパンを考えておりましたので、思った以上に早い再開を私は喜び、on line上では「何事もなかったように」継続できる事を嬉しく感じています。
これを書きながら私の左脳が何を考えているかといいますと、1対1で取り決めて開始したこんなささやかなブログであっても、どちらかの周辺事情の変化で継続の可・不可が問われる・・・それは「待つともなく待つ」ことができるけれども、「待つ」だけでは解決にならない「契約打ち切り」を宣告された「非契約社員」という立場の方々に象徴される昨今の経済社会の変化・・社会的、国家的な経済事情の在り方の推移を、それぞれの立場で何が考えられるだろうかということです。この往復書簡の発想の発端となった原丈人さんの「21世紀の国富論」を読んで、「自分もなんだか変だとは思っていたけれど、ベンチャーキャピタリストの立場で『会社は株主のものではない』と言い切る原さんの本を読んですっきりした」と語ってくれた方がおりましたが、多くのビジネスリーダーを生み出して来た「資本主義の士官学校」ともいわれるハーバード・ビジネススクールの教授が「ビジネス教育に関わる者は自問しなければいけない」などとの発言で論議を呼ぶなど(昨年11月ジェイ・ローシュ教授(76))の昨今、「なんだか変」だと思いながら「なんとなく」公言できなかったことが「やっぱり変だよね?」と発言できるメディアや関係性を、私たちは目指す事ができるのではないでしょうか。

そんな「なんだか変だな」と思う根拠を、多くの人が信頼するから自分も信頼するというのではなく、深い本質的なところ、また自分自身の内的指針に従って堂々と言葉にできる事においてはかねてよりご自分のブログやmixiで表現をされていらした岩坊さん、「時間をかければものごとなんとかなるもので」とお書きになっていますが、それはまさに「なんとかした」ことによって機が熟したのだと感じ入っています。

さて楽劇「ニーベルングの指輪」ですか!
「ワルキューレ」の雄叫びをあげながら(?)ワクワクと楽しまれたご様子を想像しながら「金銭と契約の社会が破局にいたり、愛の世界へ」という長大なテーマ性が昨今の世界情勢にピッタリであるという事も、今回の「異変」が有史以来の大変化のはじまりの鐘の音なのではないかという点についても全く私も同感です。
以前、岩坊さんと私のそれぞれが、かつて着眼したことがあった事を知って驚いた「エンデの遺言」を発端とする経済の話も引っ張りだしてみたくなりますが、今回は岩坊さんが次に用意されている<「国富論」という言葉から連想される国民経済学のイメージについて>のお手紙を楽しみに、今日はようこそお帰りなさいの挨拶で手紙を閉じたいと存じます。

このブログにコメントを下さっている方がいらっしゃいますね。これから拝読して、そちらにもお返事を書かせていただきたいと思います。

それでは

miraijinより

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未来人さま  ~ワーグナーに触発されて~

あけましておめでとうございます。

予想どうりというか、やっぱり、だいぶ間があいてしまいました。

いろいろ身辺がごたごたしていますが、メールにてご相談を兼ねてお知らせさせていただきましたように、この度は、わたしのほうのまったく個人的な事情により、この往復書簡を継続することが困難となってしまっていたことお詫びいたしいます。

ほんとうに申しわけございません。

ひとつのテーマで、必要なことを必要なだけ書いてみる絶好の機会を未来人さんに与えていただけたことをとても喜んでいたのですが、とても残念です。

と、この間、悲嘆にくれていたのですが、ここにきてなんとか周囲の理解が得られて、この往復書簡を再開する目処が見えてきました。

一時は、やむを得ない処置で、急きょ総論的な内容だけをある程度書かせていただいて、いったん私の方からの書簡を打ち切らせていただくことも考えていたのですが、時間をかければものごとなんとかなるもので、あらためて仕切りなおし、というほどのところまで進んでいたわけでもありませんが、再開させていただきたいと思います。

それで、古い下書きをベースにした話になりますが、毎年、年末というとNHKFMで好例のバイロイト音楽祭、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」が放送されます。

と、いきなり話がそれますが、昨年秋頃から私はワーグナーの超大作、楽劇「ニーベルングの指輪」の感動にどっぷりと浸っております。

以前、私の店のほうのブログで紹介させていただいたものですが
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/24937752.html
小学館のDVD BOOK 魅惑のオペラシリーズの特別版
「ニーベルングの指輪」全4巻との出会いに端を発しているものです。

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なかなか長時間集中できる時間がとれなかったのですが、11月ころようやくすべて観終わりました。

待ちに待った第3夜 「神々の黄昏」約270分!実に見ごたえがありました。
ナマではないものの、昨年はこのシリーズをじっくり味わえたことだけで十分な収穫のあった年であると思えます。

この超大作は、「金銭と契約の社会が破局にいたり、愛の世界へ」ということが楽劇のテーマとして掲げられています。

これこそ金融危機の勃発した今の世界情勢にピッタリであることも偶然とは思えません。



かつて小鳥の声を聞き分けることのできたあなたの耳に
今のあの小鳥たちのさえずりの声は聞こえないの?

とジークフリートへ問い返す言葉は、そのまま、現代のわたしたちへの言葉でもあります。

わたしは最近、ある親しいお客さんから同様の言葉をかけられて、ふと今の自分の姿に気づき、mixiやブログの世界から一線をひくことにした経緯があります。

このことはこの往復書簡の中断のひとつの背景でもあります。

ワーグナーがこの超大作を通じて投げかけた、金銭と契約の社会から、愛の世界へというテーマは、長い間、芸術の世界だけで語られるロマンの話として受け取られてきたと思います。

それがこの度のアメリカ発の金融危機によって、急に世界中の人々にとって、金銭と契約による世界というものは絶対のものではないということが、初めて現実味を帯びて語られる時代に入ったのを感じます。

前回のサブタイトルを早々に否定するようなはなしで恐縮ですが、50年に一度どころか、100年に一度の大変化が今起きていると言われていますが、わたしは今回の変化は、よく考えてみると有史以来の大変化のはじまりの鐘の音なのではないかと思っています。

ちょうどこの金融危機が勃発したときに、岩井克人さんが2008年10月17日の朝日朝刊にi以下のような記事を書かれていたことを他のネット上のコミュで知ったので知りました。

【貨幣それ自体が実は純粋な投機】というその記事の抜粋は以下のようなものです。

資本主義はなぜ不安定なのか。

それは基本的に投機によって成立しているからだ。

単純にいえば、たとえば自動車会社は、自動車を自分で乗るためでなく、将来だれかが乗るために買ってくれるという予想のもとにつくる。そこに一種の投機の要素が入っている。
また、株式、債券、為替といった金融市場は、実需とはほとんど関係ない。プロの投資家や投資ファンドが、お互いの思惑で売り買いしている。ほとんど投機によって動いている。

主流派経済学は、高い時に買いやすい時に売る頭の悪い投資家は、すぐに市場から淘汰され、頭のいい投資家だけが残るから、市場は安定し、投機は安定につながると主張する。

それは、みなが相手の予想や思惑を探りながら動くことがない、牧歌的な市場だけの話だ。

資本主義全体が投機であり、本質的に不安定だと私が考えるのは、実は資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考えるからだ。

貨幣の存在は、物々交換の手間をはぶき、経済を大いに効率化した。

しかし、貨幣それ自身に、本質的な価値はない。

それを何かと交換に他の人が受け取ってくれるという予想し、また、その人も他人が受け取ってくれると予想しているから、持っているにすぎない。

だから、隠された形ではあるが、貨幣自体が投機なのであって、結局、貨幣の信用は「みんなが貨幣であると思っているから貨幣だ」という自己循環論法で支えられているにすぎない。

そう考えると、貨幣は効率化をもたらすが、半面、大変な不安定をもたらす可能性を持つ二律背反的な存在になる。

貨幣が支える資本主義において、新古典派経済学者が説くような効率と安定の共存はありえない。

今回の金融危機には、この貨幣の問題のエッセンスが入っている。震源のサブプライムローンは、本来、信用度の低い人に貸すリスクの非常に高いローンだ。
それが1件なら、どんな金融機関も引き受けないだろう。
でも、それを大きく束ねて証券化すれば、リスクは薄められて見えるし、さらに多くの金融商品と組み合わせて厚く積み上げ、世界中にばらまくことで、そのリスクは表面から見えなくなった。

こうした金融商品は、多くの人々の間で安定的に取引され、すぐに換金できると思われていた。
あたかも、人々が最も信用する貨幣のように見えてしまった。

多くの人が信頼するから信頼するという自己循環論法が、ここにも作用している。

その隠されたリスクだったサブプライムローンが破綻すると、ドミノ倒しのように、すべての金融商品の信用が失墜したのが、今回の危機の本質だ。

まだ経済がグローバル化していなかったかつての世界恐慌と今回が違う大きな点とは、今後、基軸通貨であるドルの価値が大いに揺らぎかねないことにある。

貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題は、これまで隠されていたが、今後は表に出てくるかもしれない。
   
                                   (ここまで要約引用)

 こうした貨幣そのものの投機性という視点まで掘り下げて今の経済危機をとらえられるかどうかが、今回の金融危機の問題解決をどのような方向にもっていくかを分ける大事なポイントになるかと思うのです。

 もちろん、現実的には行き過ぎた金融資本主義のさまざまな規制を強化することも大事です。でも、私たちの生活を破壊し続けるしくみ、経済的に遅れた国々をさらに貧困と飢餓に陥れるしくみは、そうした金融資本主義の規制だけでは決して解決しません。

 ここで毎度ぶつかる、貨幣・交換・信用といった難問にまで立ち入ることはできません。

でも、このたびの金融危機を金融制度の矛盾としてのみとらえるのではなく、人類が有史以来つきあってきた貨幣というものの本質にかかわる問題として提起されているということは、きちんとおさえておきたいと思うのです。

わたしの頭のなかに、今もずっとワーグナーの音楽が鳴り響いています。

あの超大作とまではいかなくても、このやっかいな問題を、これから未来人さんとのやりとりで、じっくりと掘り下げていくことが出来たならば存外の幸せであると感じます。

原丈人さんの『21世紀の国富論』をベースにさせていただきながら、話をすすめる予定ですが、次回に、この本がタイトルゆえか、そのすばらしい内容が読者に届きにくかった原因を私なりに、「国富論」という言葉から連想される国民経済学のイメージについて書いてみようかと思っています。

うまく書き出せたら、良い年のスタートになれそうです。

では。

                     かみつけ岩坊より

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未来人さま ~100年に一度の大変化に直面して~

 未来人さん、岩坊ペースにあわせていただいてありがとうございます。

 いよいよ本題に入ろうと思うのですが、この間に起きたアメリカ発の金融危機の問題と黒人初のアメリカ大統領の誕生というニュースが、あまりにも大きな出来事なので、『21世紀の国富論』が刊行された時点とは、受け取る側の状況があまりにも変わってしまいました。

 かといって『21世紀の国富論』に書かれていることに修正や加筆を求める必要があるわけではなく、むしろその指摘の正しさが証明されたり、予測された変化が若干早まっているだけのことなのですが、この変化はとても見過ごせるレベルのことではないので、どうしてもこのことから話をすすめなければならないと思います。

 本来は、なんとか以下の三つの切り込み口ではじめに取り上げておきたいのですが、今回は最初の1点にとどめておきます。
 三つのことというのは、まずは今回のオバマ大統領誕生の衝撃のこと。第二は、アメリカ発の未曽有の金融危機のこと。第三は、これらと出来事と関わって『21世紀の国富論』というタイトルが誤解を生みやすかった背景として、社会的な「富」の蓄積とはどのようなことなのか、「国富論」という言葉が持つ古いイメージとの対比のことを書いておきたかったのですが、それはこれからの話の展開如何にゆだねることにしましょう。
 
 でも、この50年に一度とも、100年に一度ともいわれる大きな変化をどうとらえるかこそ、この往復書簡のおそらく重要なテーマのひとつでもあると考えられるので、本書の話題に入る前に、どうしても基調のイメージの話をしておきたくなってしまうのです。

 とりあえずオバマ大統領誕生の話ですが、わたしはこのことを思うと、つくづくブッシュには感謝しなければいけないと思ってしまいます。
 かつてブッシュとゴアが大統領選を争ったとき、わたしたちのまわりのどれだけの人がブッシュの当選を予想したでしょうか。あのとき、多くの人はブッシュ政権の誕生を「まさか!」の驚きとともに迎え、同時に、ふだん表には出てこない声なき保守層の力の大きさをあらためて思い知りました。
 (今回のオバマ当選も、これまで表には出てこなかった黒人層の投票が大きく左右しました。)

 でも、もしあの時、私たちの予想どうりゴアが大統領になっていたならば、今回のような劇的な変化は起こらず、まだアメリカは延命策の途上にあったかもしれません。
 そればかりか、おそらく今回のオバマ大統領誕生の伏線は敷かれていなかったことも想像されます。

 ブッシュ政権が予想どうり暴走をはじめたとき、「まさか!」の驚きでブッシュ政権を迎え入れたひとたちは、すぐに現状を変えようとはせず、おそらく、どうか行くところまで行ってくれと願いながら、ひたすら黙って傍観しつづけていました。

 そうした意味で、今起きている大変化は、たくさんの不安をもたらしていますが、変化の流れからすると、期待どおりの展開を見せているのだともいえるのかもしれません。

 ただ、オバマ大統領がこの未曽有の危機に対してどのような施策を出していけるのかはまだまったく見えないので、もしかすると見かけの積極策がゴアが大統領になった場合を予測した例のように、現在の深刻な危機と歴史の転換を薄めて延命させる方向にばかりはたらくことになることも十分ありうると思います。

 でも、それにもかかわらず今回の大統領選挙は、アメリカの二大政党政治というものが日本とは違ってとてもうまく機能していることを感じさせるものでした。それと同時に、あれだけ莫大なエネルギーとお金を費やしても、国民の基層の意識というものはそれほど変わるわけではなく、表に出てくる部分がどういったものが主導権をとっているか、ほんの僅かな差にすぎない場合がとても多いということもわたしたちに見せてくれました。

 私には、木の枝にロープをたらしてつくったブランコがイメージされるのですが、政治の意思の力で一生懸命、前に後ろにブランコをこいで、その力でなんとか木の幹本体も1センチでも前に進まないかと努力するのですが、前に力強く漕いだときはその枝から幹を伝って後ろ側にある根っこが懸命に前に倒れるのを堪えようとする。
 後ろに力強く漕いだときは、前の根っこが懸命に逆に木が倒れるのをこらえて支えようとする。

 ブッシュが大統領に当選したときも、オバマが今回当選したときも、この普段は地上にあらわれ姿を見せることのない、地中の根の部分が、地上での派手な争い以上に大きく勝敗をわける要因になっていたのを感じるのです。

 北側に伸びている根っこがはたしてどのくらい深く広く伸びているのか、南側に伸びている根っこがどのくらい深く広く伸びているのか、これも地上からはわかりません。
 わたしたちは、それが見えないばかりに、つい意識的な人々の活動や先進的といわれる一部の人々のイニシアで、全体が思いどおりの方向に簡単に進むかのように思いがちですが、地上部分がどちらに傾こうが、さらにはたとえ幹全体が枯れ果てようが、
この地下深く広がっている根っこさえしっかりとしていれば、いかなる危機が訪れようとも、生命は必ず再生することができるものです。

 ブランコはいくら力を込めてこいだところで、それを支える木の幹自体は決して、前にも後ろにも進むわけではない。
 わたしたちは、前に進まなければ進歩ではないかの思いにとらわれがちですが、たしかな生命力のためには、誰が何と言おうがこの地中に深く広がった根っここそが、全体を規定しているのだということを、最近の世の中の出来事は見せつけてくれているように感じられます。

 これからの時代のめまぐるしい技術革新を伴った進歩というのも、この根っこの方向に向かってこそ生命を得てくるものだと思わずにはいられません。
 原丈人さんが『21世紀の国富論』のなかで書いている様々な具体的提起も、最先端の技術や資本を活用しながらも、この根っこの方向に向かっているからこそ、わたしたちには小気味よく感じられるのではないかと思うのです。

 金融危機の問題も、グローバル資本主義という範囲にとどまらず、人間社会の経済活動の一現象としてとらえたとき、50年、100年に一度の大変化どころか、人間社会にとって有史以来の大きな転換の流れが見え隠れしている気すらしてきます。

 次回にその話題に流れられるか、ちょっと心配なことが今、わたしのところで起きてしまいましたが、今日はここまでにしておきます。

   
   本日、このブログに関連した別件で
      人生の岐路に立たされたかみつけ岩坊より

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岩坊さま  〜 これから何を『待つ』のか 〜

第一稿をメールでお送りしたまま、blogの立ち上げまでをすっかりお任せしてしまい、ごめんなさいね。
今回からは自分の側から書き込んで参ります。
おかげさまで家事や育児からは開放されている私ですが、仕事柄、いただくメールコーチングへの24時間以内返信を心がけている毎日。それは一切苦にならないのにブログのひとり書きは大の苦手です。。。
岩坊さんの身軽な軽業師のような書簡に誘われて早速お返事しておりますが、返信はどうぞいつでも岩坊タイムで。
「往復書簡」というスタイルにこだわったのは、むしろお互いになんの縛りも無く、自由な発言を楽しめることがメールの「対話」とも違う面白さだと考えたからです。
そう、緻密な計画もいらない、展開もわからない。多田富雄さんと柳澤桂子さんの往復書簡が素晴らしいのは、どこかでお互いの生命力を触発し合うような空気が流れるあの感じ。。。見識や文章力ではとても及びもつかないのは私にはなおさらのことですが、岩坊さんからの書簡の中には多分、「なるほどそういう形にできるのね」という発見が多いのではないかと、今回も早速感じた次第です=岩坊さんの書簡の中の「タイトルの方式と検索」。

それから、最近「待つ」「待たせる」という事がある方とのコーチングテーマになったのですが、哲学の鷲田清一さん(現:大阪大学総長)に「『待つ』ということ」という著書がありましたね。亡夫が亡くなる2ヶ月ほど前、新聞で書評を読んで「澄はずーーっと待ち続けてくれたんだね」と、なにやら哲学的な言葉を言ってくれた事を思いだしました。鷲田さんの文章には、正否を単純に分けるのではなく、縦から眺め、横から眺め、ひっくり返したり覗き込んだりを同時進行できるような面白さを感じます。亡夫とはスピード感のあるどこまでも尽きない会話ができる事がお互いの楽しみでしたが、一方で複雑な事を単純に決めつけないという態度をさして言ってくれていたのだとしたら嬉しいことだと。。。。。「いつも待たせてしまうことになってしまわないか」と心配して下さっていることに、気にしないでとお伝えしようとしたら横道にそれましたが、そんなわけで大丈夫です。
「待つ」ということにもうひとつ書くならば、キング牧師が暗殺された時代に、米国に黒人の大統領が生まれるまで待てる(生きていられる)と考えた方々が、私を含めてどのくらいいたでしょうね!
オバマ大統領が誕生した日に間をおかずにこの書簡を書いている不思議を思います。

このblogのタイトル、原丈人さんの『21世紀の国富論』に関する見解もお見事と感じました。私とは違う表現方式で、私の意図するところとの一致点を感じます。もちろんこれから、見解の相違やそれぞれの文化、疑問やこだわりやその他もろもろを露出しながら、岩坊さんが書いていらっしゃる「今の時代の枠組みのなかで立ち位置を確認できる方向で役立てることができたらよいかなと期待しております。」に貢献できたらなにものにも勝る喜びです。

タイトルは確かにシンプルで的を得ていますね。サブ・タイトルをいくつか考えてみたいと思います。
blogの機能やさまざまな使い方は、どうぞこれからもご指南ください。

2008年11月05日

未来人

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