トップページ | 2009年1月 »

2008年11月

未来人さま ~100年に一度の大変化に直面して~

 未来人さん、岩坊ペースにあわせていただいてありがとうございます。

 いよいよ本題に入ろうと思うのですが、この間に起きたアメリカ発の金融危機の問題と黒人初のアメリカ大統領の誕生というニュースが、あまりにも大きな出来事なので、『21世紀の国富論』が刊行された時点とは、受け取る側の状況があまりにも変わってしまいました。

 かといって『21世紀の国富論』に書かれていることに修正や加筆を求める必要があるわけではなく、むしろその指摘の正しさが証明されたり、予測された変化が若干早まっているだけのことなのですが、この変化はとても見過ごせるレベルのことではないので、どうしてもこのことから話をすすめなければならないと思います。

 本来は、なんとか以下の三つの切り込み口ではじめに取り上げておきたいのですが、今回は最初の1点にとどめておきます。
 三つのことというのは、まずは今回のオバマ大統領誕生の衝撃のこと。第二は、アメリカ発の未曽有の金融危機のこと。第三は、これらと出来事と関わって『21世紀の国富論』というタイトルが誤解を生みやすかった背景として、社会的な「富」の蓄積とはどのようなことなのか、「国富論」という言葉が持つ古いイメージとの対比のことを書いておきたかったのですが、それはこれからの話の展開如何にゆだねることにしましょう。
 
 でも、この50年に一度とも、100年に一度ともいわれる大きな変化をどうとらえるかこそ、この往復書簡のおそらく重要なテーマのひとつでもあると考えられるので、本書の話題に入る前に、どうしても基調のイメージの話をしておきたくなってしまうのです。

 とりあえずオバマ大統領誕生の話ですが、わたしはこのことを思うと、つくづくブッシュには感謝しなければいけないと思ってしまいます。
 かつてブッシュとゴアが大統領選を争ったとき、わたしたちのまわりのどれだけの人がブッシュの当選を予想したでしょうか。あのとき、多くの人はブッシュ政権の誕生を「まさか!」の驚きとともに迎え、同時に、ふだん表には出てこない声なき保守層の力の大きさをあらためて思い知りました。
 (今回のオバマ当選も、これまで表には出てこなかった黒人層の投票が大きく左右しました。)

 でも、もしあの時、私たちの予想どうりゴアが大統領になっていたならば、今回のような劇的な変化は起こらず、まだアメリカは延命策の途上にあったかもしれません。
 そればかりか、おそらく今回のオバマ大統領誕生の伏線は敷かれていなかったことも想像されます。

 ブッシュ政権が予想どうり暴走をはじめたとき、「まさか!」の驚きでブッシュ政権を迎え入れたひとたちは、すぐに現状を変えようとはせず、おそらく、どうか行くところまで行ってくれと願いながら、ひたすら黙って傍観しつづけていました。

 そうした意味で、今起きている大変化は、たくさんの不安をもたらしていますが、変化の流れからすると、期待どおりの展開を見せているのだともいえるのかもしれません。

 ただ、オバマ大統領がこの未曽有の危機に対してどのような施策を出していけるのかはまだまったく見えないので、もしかすると見かけの積極策がゴアが大統領になった場合を予測した例のように、現在の深刻な危機と歴史の転換を薄めて延命させる方向にばかりはたらくことになることも十分ありうると思います。

 でも、それにもかかわらず今回の大統領選挙は、アメリカの二大政党政治というものが日本とは違ってとてもうまく機能していることを感じさせるものでした。それと同時に、あれだけ莫大なエネルギーとお金を費やしても、国民の基層の意識というものはそれほど変わるわけではなく、表に出てくる部分がどういったものが主導権をとっているか、ほんの僅かな差にすぎない場合がとても多いということもわたしたちに見せてくれました。

 私には、木の枝にロープをたらしてつくったブランコがイメージされるのですが、政治の意思の力で一生懸命、前に後ろにブランコをこいで、その力でなんとか木の幹本体も1センチでも前に進まないかと努力するのですが、前に力強く漕いだときはその枝から幹を伝って後ろ側にある根っこが懸命に前に倒れるのを堪えようとする。
 後ろに力強く漕いだときは、前の根っこが懸命に逆に木が倒れるのをこらえて支えようとする。

 ブッシュが大統領に当選したときも、オバマが今回当選したときも、この普段は地上にあらわれ姿を見せることのない、地中の根の部分が、地上での派手な争い以上に大きく勝敗をわける要因になっていたのを感じるのです。

 北側に伸びている根っこがはたしてどのくらい深く広く伸びているのか、南側に伸びている根っこがどのくらい深く広く伸びているのか、これも地上からはわかりません。
 わたしたちは、それが見えないばかりに、つい意識的な人々の活動や先進的といわれる一部の人々のイニシアで、全体が思いどおりの方向に簡単に進むかのように思いがちですが、地上部分がどちらに傾こうが、さらにはたとえ幹全体が枯れ果てようが、
この地下深く広がっている根っこさえしっかりとしていれば、いかなる危機が訪れようとも、生命は必ず再生することができるものです。

 ブランコはいくら力を込めてこいだところで、それを支える木の幹自体は決して、前にも後ろにも進むわけではない。
 わたしたちは、前に進まなければ進歩ではないかの思いにとらわれがちですが、たしかな生命力のためには、誰が何と言おうがこの地中に深く広がった根っここそが、全体を規定しているのだということを、最近の世の中の出来事は見せつけてくれているように感じられます。

 これからの時代のめまぐるしい技術革新を伴った進歩というのも、この根っこの方向に向かってこそ生命を得てくるものだと思わずにはいられません。
 原丈人さんが『21世紀の国富論』のなかで書いている様々な具体的提起も、最先端の技術や資本を活用しながらも、この根っこの方向に向かっているからこそ、わたしたちには小気味よく感じられるのではないかと思うのです。

 金融危機の問題も、グローバル資本主義という範囲にとどまらず、人間社会の経済活動の一現象としてとらえたとき、50年、100年に一度の大変化どころか、人間社会にとって有史以来の大きな転換の流れが見え隠れしている気すらしてきます。

 次回にその話題に流れられるか、ちょっと心配なことが今、わたしのところで起きてしまいましたが、今日はここまでにしておきます。

   
   本日、このブログに関連した別件で
      人生の岐路に立たされたかみつけ岩坊より

| | コメント (0) | トラックバック (0)

岩坊さま  〜 これから何を『待つ』のか 〜

第一稿をメールでお送りしたまま、blogの立ち上げまでをすっかりお任せしてしまい、ごめんなさいね。
今回からは自分の側から書き込んで参ります。
おかげさまで家事や育児からは開放されている私ですが、仕事柄、いただくメールコーチングへの24時間以内返信を心がけている毎日。それは一切苦にならないのにブログのひとり書きは大の苦手です。。。
岩坊さんの身軽な軽業師のような書簡に誘われて早速お返事しておりますが、返信はどうぞいつでも岩坊タイムで。
「往復書簡」というスタイルにこだわったのは、むしろお互いになんの縛りも無く、自由な発言を楽しめることがメールの「対話」とも違う面白さだと考えたからです。
そう、緻密な計画もいらない、展開もわからない。多田富雄さんと柳澤桂子さんの往復書簡が素晴らしいのは、どこかでお互いの生命力を触発し合うような空気が流れるあの感じ。。。見識や文章力ではとても及びもつかないのは私にはなおさらのことですが、岩坊さんからの書簡の中には多分、「なるほどそういう形にできるのね」という発見が多いのではないかと、今回も早速感じた次第です=岩坊さんの書簡の中の「タイトルの方式と検索」。

それから、最近「待つ」「待たせる」という事がある方とのコーチングテーマになったのですが、哲学の鷲田清一さん(現:大阪大学総長)に「『待つ』ということ」という著書がありましたね。亡夫が亡くなる2ヶ月ほど前、新聞で書評を読んで「澄はずーーっと待ち続けてくれたんだね」と、なにやら哲学的な言葉を言ってくれた事を思いだしました。鷲田さんの文章には、正否を単純に分けるのではなく、縦から眺め、横から眺め、ひっくり返したり覗き込んだりを同時進行できるような面白さを感じます。亡夫とはスピード感のあるどこまでも尽きない会話ができる事がお互いの楽しみでしたが、一方で複雑な事を単純に決めつけないという態度をさして言ってくれていたのだとしたら嬉しいことだと。。。。。「いつも待たせてしまうことになってしまわないか」と心配して下さっていることに、気にしないでとお伝えしようとしたら横道にそれましたが、そんなわけで大丈夫です。
「待つ」ということにもうひとつ書くならば、キング牧師が暗殺された時代に、米国に黒人の大統領が生まれるまで待てる(生きていられる)と考えた方々が、私を含めてどのくらいいたでしょうね!
オバマ大統領が誕生した日に間をおかずにこの書簡を書いている不思議を思います。

このblogのタイトル、原丈人さんの『21世紀の国富論』に関する見解もお見事と感じました。私とは違う表現方式で、私の意図するところとの一致点を感じます。もちろんこれから、見解の相違やそれぞれの文化、疑問やこだわりやその他もろもろを露出しながら、岩坊さんが書いていらっしゃる「今の時代の枠組みのなかで立ち位置を確認できる方向で役立てることができたらよいかなと期待しております。」に貢献できたらなにものにも勝る喜びです。

タイトルは確かにシンプルで的を得ていますね。サブ・タイトルをいくつか考えてみたいと思います。
blogの機能やさまざまな使い方は、どうぞこれからもご指南ください。

2008年11月05日

未来人

| | コメント (0) | トラックバック (0)

未来人さんへ  ~ブログ開設にあたって~

 返信お待たせしました。いよいよスタートすることになりましたね。 忙しいことは誰でも同じだと思うのですが、つくづく男というのは切り替えが下手で、家事や育児の合間にガンガンブログの更新や書き込みをする女性の皆さん手際の良さには、いつも頭が下がります。

これから私の返信の方が遅くなり、未来人さんをいつも待たせてしまうことになってしまわないか、とても心配です。

  今回、未来人さんから光栄にも往復書簡方式のブログの提案をいただいてから、どのような内容の展開になるものか考えてはみたものの、私の性格からして緻密な計画などおよそ成り立たない、その場その場で予定が変わっていくことが十分予想されるので、深くは考えず、目の前の作業からその都度こなしていくことと割り切っていました。

 それでとりあえず立ち上げたこのブログも、テンプレートなどは気に入っていただけたようですが、ブログタイトルや書式などは、これから対話を重ねながら、まだ手直しをしていけたらと思っています。

 でも、最初に今後の展開の枠組みを規定するブログタイトルについては、早く決めておいたほうが良いですね。私がとりあえず「未来人とかみつけ岩坊の往復書簡」としたのは、原丈人さんの『21世紀の国富論』を軸にするにしても、従来の書評を拡大したイメージとすることよりは、二人の視点を浮き立たせることに重点をおいたほうが良いような気がしたからということがあります。

 『21世紀の国富論』で取り上げられている内容は、かなり盛りだくさんなので、本の流れに添うことはあまり意識せず、お互いの切り込み口で自由に展開したほうが良さそうなことからも、本のタイトルをブログタイトルに入れないで進めたほうが良いのではないかと感じました。

 それで、ふたりのペンネームを並べてみたら、ちょうど未来と現実を対比するような取り合わせになったので、これでもいいかなと。

 未来を見通した視点と現実に咬みつく凡人の視点の交錯といった感じでしょうか。本名を使ってみたい気もしますが、それぞれの特徴が出せれば、これを書いているのはいったいどんな奴だと、読む人に興味を持ってもらえたほうが面白そうにも思えます。

 そちらからの他の案があれば随時相談して、いつでも変えることはいとわず、よりよいものを模索していきましょう。

 

 それからこの往復書簡とうい形式ですが、お話をいただいてから藤原書店の季刊誌『環』での多田富雄と鶴見和子の往復書簡や、同じく多田富雄と柳沢桂子の往復書簡が単行本化された『いのちへの対話 露の身ながら』(集英社)などは参照してみました。

 未来人さんから紹介された新聞の夕刊は、まだ見ていませんが、なんて素敵なやり取りだろうと関心させられるも、この文章力はとても私には太刀打ちできない世界だと、パスさせていただかざるをえません。仮になにか参考にしようと思っても、長い文章を書いていれば結局、自分のボロボロスタイルに戻ってしまうことは必至ですから(゚ー゚;

 ただ、継続したやり取りをひとつの書簡ごとに特徴づけるタイトルをつけて、その流れで章建てを追えるような方式はすばらしいと思いました。おそらく1回の文章のタイトルは、内容を文学的に要約することだけでなく、ある程度は、どのような検索にかかるかということも多少意識してつけることになるかと思います。

 

 それから今回、「ココログ」を使ってみたことについて少しだけ説明しておきます。

 以前わたしは、ヤフーブログとライブドアブログを使っていましたが、どちらも使い勝手や機能など納得ができてはいませんでした。それで最近gooブログに乗り換えてようやく満足できるようになったのですが、他の選択肢としては未来人さんが使っている「はてなブログ」と「ココログ」が残っていました。どうせなら、お互いにまだ経験のないものでこれはというものを使い込んで試してみたいと思い「ココログ」にしてみたのですが、これから様々な機能を試して様子をみてみましょう。

 この試みが、今の私の問題意識のなかでは、日々、太刀打ちできない現実に翻弄されながらも、自分のアウトプットの仕方をなんとか、未来人さんの力を借りて、今の時代の枠組みのなかで立ち位置を確認できる方向で役立てることができたらよいかなと期待しております。

 今回はまだ内容には入らずに、ブログ開設にあたっての序文になってしまいましたが、まずスタートをきれたことで良しとしましょう。

         2008年11月5日

          昨日の天を衝く怒りも、

           今日の従業員のフォローで救われた職場にて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

岩坊さんへ

私から「往復書簡のblogを立ち上げてみませんか?」という提案を差し上げてから、もうひと月以上がたってしまったでしょうか?最初の書簡を差し上げ ようと思って手が付けられないまま、時間が慌ただしく目の前を過ぎ去っております。

仕事に忙殺されているというよりは、日々のメールコーチングでの多様 多彩な対話を返信しながら、あの件のキリをつけてからにしよう、この会合が終わってからにしようと、始まりの切り口を頭の片隅に置きつつ、そういえばこの考えは麻生内閣が生まれる以前にお伝えしたのだったかしら、とか米国の大統領選にまつわる推移と明日に迫った投票日というを横目で見ながら、うむ、実際にこのblogが立ち上がる時には大統領選の結果がでて、どのようなニュースが流れているいる頃だろうかと「時の流れと夥しい変化」を感じております。

そもそもこの「往復書簡のblog」の件をお話ししたのは、原丈人さんの「21世紀の国富論」を読んだところが始まりです。

いえ、そのまた発端は、メー ルコーチングの新しいクライアントの方が、糸井重里さんの「ほぼ日」を話題にしたことからだったのですが、「ほぼ日」のサイトを見ていく中で発見した原丈人さんへのインタビューを読んで、とてつもなく嬉しくなってしまった、こんな面白い方がこんな面白いシチュエーションに存在していたんだという衝撃からでした。

「21世紀の国富論」は2007年の発行ですからすでに1年余。書店に行けばまだ平積みになっているので相当売れてはいるのでしょうが、私自身、横目で眺めていたかもしれないけれど手にとってみなかった。

そして面白い事には、この本を「ぜひ『ほぼ日』を読んでから読んでね!」とお伝えした、岩坊さんを始めとする私の周りの方々のひとりとして、この本の存在を知らなかったか、書店では手に取らない状況にありました。すでに10名を下りませんよ。

お仕事、専門分野は様々な方たちですが、私からみるにこの原丈人さんと同じようなプリンシパルというか、それぞれの本質を心に秘めて生きていらっしゃる方々ばかりなのに!

そしてその上で異口同言に「澄さんから聞かなかったら、この本は読まなかった!こんな面白い人がいるなんて知らなかった」と返信して下さるのです。これはただ事ではありません。(^^)
「往復書簡でblogを」というアイデアはもともとあったのですが、この本をきっかけにしたいと思って浮かんできた相手の顔が岩坊さんだったのはどうしてか。

岩坊さんからも「どうして私なの?」というメールをいただいたので改めて考えてみました。たしか「どんな話題に対しても基本スタンスが変わらないけれども凄く柔軟だからかな?」と返信差し上げたように思うのですが、そう、どんなに現象現実が動いても自分の根源的な姿勢を変えない、そしてそれは 「正しいとか正しくない」とかいう外的な判断を加えられるものではなく、それが岩坊さんの「姿勢・生き方」なのだという事を感じさせる、原丈人さんからも感じる事との共通点があること。

興味ある事には臆せずにご自分の視点からお書きになる文章力があることや、HP、blogの制作にも慣れていらっしゃる事となどが考えられますが、何よりも提案に対して「面白そうだからやろう」と無理せずに乗って下さるのでは?と直観したからとしか言いようがありません。

岩坊さんはSNSにも詳しいし、コミュニティーにも作っていらっしゃいますので「新しいコミュは?」という提案も下さいましたが、私が「往復書簡」にこだわる訳、それも考えてみましたので書いておきますね。

私は仕事柄様々なメディアにも携わってきましたので、それぞれのメディアにはそれの特性・特有の効果的な意味合いがあると考えており、そのどれも否定するものではありません。

e-メールというメディアに関しては、当初からこれほど素晴らしいコミュニケーション手段はないと考えていましたので、それが現職として「メールコーチング」という形でたくさんの方々の「人生の伴走」をさせていただいているという事にも繋がっています。

ところがblogを立ち上げてはみたものの、どうにも日記のようなものを独り語りで続けるのは難しい・・・と、これは全く私的な事情なので無視しましょうか。

「国富論」を読んで私が真っ先に思い出すのは、日本では1981年に出版された「アクエリアン革命」(マリリン.ファーガソン著/実業の日本社)に著わされた意識の潮流のことです。これは原丈人さんがその本を読んでいらっしゃるかいらっしゃないかには全く関わりません。単純に、イデオロギーによって同心円的な集合意識が起こす20世紀型の革命ではなく、新しい意識の潮流は様々な人々の内側に個々に生まれ育まれ、それが既成概念や既成の構造論を超えて未来を人間性に満ちた在り方に形作っていく・・・という考え方だと理解していただけばよいと思います。

ところが上記したように、ネットによる情報の検索は自由であり、また書店と言う同じ空間を通過していても「国富論」という本に出会うことなく過ごしていると言う現実。。。。

この本のテーマを中心にコミュニティーを立ち上げれば面白い意見交換や様々な出会いの数は増えるかもしれない。けれども「往復書簡」というスタイルでやってみたいのは、出会いのきっかけを作るよりももう少し深く、今、この時代に生きている個々それぞれが「この時代プロセスに生きている主人公なのだ」という意識を喚起してみたいという衝動・・・多数が異口同言に意見を述べ合うコミュニティーではなく、全く個性の違う二人がお互いを暴き合う(?)腹を探り合う(?)・・・いえいえ、忌憚なくそれぞれの考えを書く事の中から、そこに介入してみたいと考える方々のとの個々のつながりや掘り下げをしてみたいと思うからなのです。

私自身はもちろん私の人生の主人公ですが、職業柄なのか私の生き方なのか、色々な分野にいる方々が主人公である人生のサポートをしたいし、、つまり私のHPだけでは出会いが限られる方々と出会うきっかけを作りたいし、岩坊さんの生き方や考え方、指向していらっしゃるプロジェクトへの賛同・参画者も発掘できたら楽しいという思惑もあります。

しかしそれが決して目的なのではなく、最も楽しみなのは往復書簡の間に醸し出されていく(かもしれない)ダイナミズム・・・何が見えてくるかなのです。

往復書簡第一稿としてはとりとめない文章になってしまいました。岩坊さんはこの私の考えに対するお考えというよりも、どうぞ身勝手にご自由に、ご自論・ 持論を展開してください。

それではまた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2009年1月 »