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2009年1月

未来人さま ~個別・特殊・普遍~

 前回、『21世紀の国富論』がタイトル表現で誤解され損をしているのではないかといったようなことを書きましたが、以前どこかで未来人さんと話したことがあることですが、本書を企画した平凡社のこの編集者が鋭く且つ稀有な時代センスを持った方であるということは、忘れずに記しておかなければなりませんね。
 もうひとり注目している岩井克人さんの著作も、同じ平凡社の編集者によるところが大きいと感じます。
 内容を簡潔に表現することと、購買動機につながる表現の兼ね合いの難しさのようなものがあったことは十分推察されます。
 その不足部分を、少しでも私たちのやり取りで補うことができればうれしいのですが。

 ところで、櫻井よしこさんとはそんなつながりがあったのですか?
テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトの歴代女性キャスターの人選(人選の力プラス、人を育てる番組の力?)でも感じているのですが、評価の定まった有名タレントの起用ではなく、しっかりとした人材を確実に起用できる番組製作者は、いったいどのような人たちなのかいつも興味を持っていました。
 残念ながら、お会いするご縁の無かったご主人のイメージがまた少し湧いてきました。

 前回は、漠然としたイメージのまま「国民経済学」という言葉を使ってしまったのですが、「国民文学」などといった表現にも同様のことが感じられますが、グローバル化が進んだ現代においては、こうした言葉の持つ意味が大きく変わってきているのを感じます。
 実は、そんな視点で、どうしてもここで挟んでおきたい1冊の本があります。

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水村美苗著『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税

 ご存知かもしれませんが昨年10月に出た本なのですが、じわりじわりと評判が広がり、田中優子著『カムイ伝講義』小学館とともにこの間、各方面で書評が出まくっている本です。

 これまでの日本語論というと、どうしても金田一一族や、外山滋比古、大野晋などの国語学者、日本語研究者によるものがイメージされますが、本書は一小説家としての立場でありながら、その豊富な海外経験から、専門家以上に深く鋭い考察に満ちた、実に興味深い本となっています。

 この本1冊でも、『21世紀の国富論』に劣らない多面的な未来人さんとのやり取りができそうな本なのです。
 とても重要な視点をたくさん提起されている本なので、書評が注目しているポイントも評者によって様々です。

 たくさんの興味深い視点のなかでも、この間の書簡の流れで、「国民経済学」から「国民国家」、「社会的富の在り方」などにふれると、同列の問題として必然的に「通貨」や「言語」の問題が浮かび上がり、その延長線上にこの水村美苗さんが本書で指摘している「普遍語」「国語」「現地語」という分類があります。

 これまで世界中の多くの人々にとって、地球規模の世界よりも自分の所属する民族や国家こそが、相対的でありながらも普遍世界でした。

 ところが今は英語がインターネットの力を伴ったことにより、これまでのいかなる言語よりも、普遍語として通用し続ける要因を得たことになってしまいました。それによって水村さんは「国語」や「現地語」の深刻な危機を招くと指摘しています。

 このこと自体は、それほど独自な指摘ではなく多くの人が語っていることなのですが、その指摘に至る水村さんの論拠の展開がとてもすばらしいのです。

 今でこそ英語が普遍語としての地位をもっていますが、第二次大戦前までは、ヨーロッパでは英語、ドイツ語、フランス語が三大言語としてほぼ対等といっても良い地位を持っていました。
 それ以前は、ラテン語こそが普遍語としての地位を持っている時代が長く続いていました。その時代にあっては、イタリア語、フランス語、ドイツ語などは、それぞれの地方だけの現地語にしか過ぎなかったのです。
 東洋においても、漢語こそが普遍語としての地位を長く持っており、日本でもつい最近まで公文書は漢文でなければなりませんでした。

 このように「普遍語」というのは、時代とともに移りかわるものなのですが、こと「英語」に関しては、インターネットの普及とともにこれまでとは次元の違う普遍語の地位を得ようとしているというわけです。
 
 ところが、ここからは私の意見なのですが、アメリカの地位の低下とともに基軸通貨としてのドルの信用が無くなることが確実になった今、通貨に限らず、言語においても同様の現象が起こりうるのではないかと感じるのです。

 多くの場合、「普遍語」としてそれが通用しているのは、その言語が合理的であるかどうか、美しい言葉であるかどうかなどの理由によるものではなく、ただ単にそれが多くの人によって使用され信用されている合理性があるということのみによるのだと思います。

 同じことが、お金についてもいえます。
 
 ドルが基軸通貨としての地位を持っているのは、きっかけはアメリカの経済力の目ざましい発展であったかもしれませんが、金とドルの交換を停止したときから、ドルが基軸通貨としての実力があるから流通しているのではなく、ただ国際決済手段として信用されているからというだけの理由でその地位を保っていたということが明らかになったのです。

 さらにパソコンのOSなども、これと同じようなことが言えますね。

 いかなる分野においても、ものごとは「普遍化」の方向にベクトルが向かっているように見えますが、「普遍」の地位を得たものは、必ずしも「合理的」根拠をともなったものではないということが、わたしたちは眼前に起きている歴史から知ることができます。

 こうした流れで考えると、私は水村さんほどは「日本語が亡びる」危機はあるものの、それが不可避の流れであるというまでの危機感は感じません。 もちろん、水村さんの指摘は、そんな単純なことではなく面白いのですが。

 社会が生産活動によってなり立ち、交換を必然とする限り、あらゆる事柄が共通化といった指向性で「普遍化」していくプロセスは不可避なのですが、かといって個別・具体性が無くなって良いというものではありません。

 「国語」「現地語」は、その大半は他の現地語や国語、あるいは普遍語へと翻訳可能なものですが、翻訳不能なものを含んでいるということが「小説」などの個別性を語る世界でない限り、ほとんど意識されなくなってしまっています。
 たしかに、その拡大便利さや見かけの合理性に押し流されてしまいそうな勢いには、とてつもない抗しがたい力を感じています。

 私の話は、いつも次元の違う概念が交錯してすみませんが、前回触れた「国民経済学」の実態が把握しにくくなった現代、虚構の上になりたったグローバル化が加速した現代において、これからの社会を考える上では、「普遍化」への一方通行のベクトルから、いかに「個別性」と「特殊性」を保持した発想、あるいは意思をもって「普遍化」のベクトルを押しとどめて、個別・具体性を強化することが、とても難しいことですがこれからの時代は極めて大事なことであると思うのです。

 今後も世界各地で起きる紛争の解決を考えた場合でも、国連などを中心とした世界的協力関係は、ますます求められるようになりますが、異なる宗教やイデオロギー間の国際協調をはかるためには、安易な普遍原理を求めることよりも、個別・特殊な事情をまず知り、尊重することからはじめなければなりません。

 そんな指向性の大きな転換が、今はじまろうとしているのを感じます。

 原丈人さんの『21世紀の国富論』も、そんな視点からの提起に満ちています。

 ときどきこの往復書簡で名前が出てくる『アクエリアン革命』も、なんとなく普遍的なテーゼや概念から発想するものではなく、個別・具体性の追求を優先することによってこそ、起こりうるものに見えます。 

 今回のタイトルに入れた「個別」「特殊」「普遍」という概念が、これから各論をぐるっとめぐらせて、また最後にここへふたたび戻ってこれたらと思います。

 交換とともに「個別性」が捨象されていく必然と、 質(価値)を量に換算しないと交換が成り立たない必然に対して、

交換し難さを保持することで「質(価値)」の固有性が保てることが、あらゆる領域でこれから問われてくる時代に突入したのではないでしょうか。

厳しい時代であるには違いありませんが、なんとも楽しみなことではないですか。

今日のところはこの辺で、ではまた。
 

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岩坊さま 〜「タイトルで損した」について〜

「21世紀の国富論」について、まさに私がこの往復書簡ブログをご提案するに至った経緯を言い表しているような解説をありがとうございました。そうなんです。私自身、ずっと平積みになっていた「21世紀の国富論」を書店にいく度に目にしていた筈ですのに、おかしな偶然から糸井重里氏の「ほぼ日」での糸井さんと原さんの対談を読まなかったら、永遠に手にとらなかったなかったと思います。
パソコンの前で笑い転げて、次の日には本を手に入れていました。そして岩坊さんをはじめとする精神文化が近いと思われる方々に「ぜひ『ほぼ日』を読んでから『国富論』を読んでね!」とメール差し上げた全員が「読まずにいられません!でもこの本はmiraijinから聞かなかったら手にとっていなかった!」と全く同様の反応を返して下さったんです。もうびっくり。

原丈人さんほど小気味よく盛大にあのようなご自身発想を実現している方は少ないですけれども、それ以上に普段の仕事領域・文化圏・生活圏が同じような領域にいないために出会う事が難しいとしたら。。。
あっちの領域にも、こっちの領域にも、自分の仕事や生き方を通して同様の未来を構想している人々がいるんだということを、個人のブログで訴えるよりもこんな往復書簡の形で表現できたほうが、ささやかだけれど面白い広がりを見せるかもしれない。。と考えた次第なのです。こうして実現できて嬉しいです。

「タイトルで損した」については私もほぼ同意見ですが、たぶんこのタイトルは編集者からの発案ではないでしょうか。何事か過去の偉大なものに「なぞらえる」ことで「古くて新しい命題を浮き上がらせる」「新しい領域を拓く」「パラダイムを広げる」という手法がとてもうまく働くという事もあると思うんですね。ただ、世代によるのか感性によるのか個々の意識や文化の違いなのかは分かりませんが、それが全く反対の受け取り方になってしまう場合もある。そのことで思い出したことがあるので、極めて私的なことですけれど書いてみますね。
1980年、日本のTV局で始めて「女性のアンカーマンを起用しよう」という英断をした日本テレビ(NTV)が、当時NBC東京支局でオペレーションマネージャーをしていた亡夫にそれを提案し、亡夫は所属していた日本外国特派員協会のメンバーであった桜井良子(櫻井よしこ)さんに打診。その時、桜井さんがそのオファーを受ける気になったのは「日本のバーバラ・ウォルターズになって下さい。」という亡夫のひとことだったということは櫻井さんご自身が本にも書いていらっしゃるのですが、当時はテレビと言えばジャーナリストの目から見れば浅薄なメディア。周りの方々は反対したそうです。しかしその時期の桜井さんにとってバーバラ・ウォルターズはインパクトの強い存在。NBCの「TODAY」という番組の視聴率を引き上げ、大統領であろうと誰であろうと何よりも鋭い持ち味でインタビューしていく。結果日本テレビの「きょうの出来事」を櫻井さんは90年代まで続けるという快挙をなさったわけなんです。この先は笑い話で読んでいただきたいのですが、私が亡夫と始めて出会ったのは83年。彼がNBCを辞めて起業した後です。彼が起業することを決断した事に大きく影響したのはマリリン・ファーガソンの著書「アクエリアン革命」で、この内容はまさに原丈人さんのような存在とも繋がる未来論でしたし、私の周囲の人々も絶賛していた本なのですが。。。お互いの情報を知った後にはじめて顔を合わせた時、最初に言われたのが「日本のマリリン・ファーガソンになりませんか?」だったのです。ただしその時の私の反応は・・・「え?違います。私は誰にもなりたくない」・・・つまり、良し悪し抜きにこれは今回、岩坊さんが書いておられる「国富論というタイトルの是非」に似ていると改めて思ったというわけです。亡夫はそれ以外にも「もうひとつの永田町」という考え方で勉強会をしていたり(今の政治では世の中は変わらないという意味でしょう)、その頃は遠い将来(90年代)に奇縁が巡って結婚することなども想いもよらなかった時期なのですが。

さてさて「21世紀の国富論」にもう一度戻りましょう。「国富論」という言葉から連想されるものの枠組みを遥かに超えた問題提起や諸テーマの解決の手がかり・・・各論の糸口、想像の切り口は本当に様々あると思います。今日は長くなってしまったのでこのへんで。次なる問題提起を楽しみにお待ちしています。それではまた。

miraijinより

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未来人さま ~タイトルで損した『21世紀の国富論』~

 

毎度、「待って」いただいてありがとうございます。

 前回、予告したことについて書きます。

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 私のみならず、多くの人がどうやら『21世紀の国富論』というタイトルが誤解を生みやすいことによるのか、この書名を見て実際に手に取る行為にまで至らなかった例がとても多かったことを未来人さんの話で知りました。

 これはどうも「21世紀の」と大事なことわり書きをしていながらも、多くの人が「国富論」という聞きなれた言葉にイメージが引きずられてしまったことによるのではないかと思います。

 私たちが「国富論」という言葉を聞くと誰もがアダム・スミスのそれを思い浮かべますが同時に、「国民経済学」をベースにした国家論をなんとなく思い浮かべているような気がします。
 これは当然なことなのですが、現代の私たちは、経済知識の有無にかかわりなく、なんとなくこの経済観は古いものと感じるようになっているのではないでしょうか。

 私は漠然としたイメージで「国民経済学」という表現を使ってしまいましたが、主に産業革命以来の近代資本主義は、鉄鋼や石炭、石油などの資源や鉄道、運輸、通信などの基幹産業のインフラ部分を国家をあげて育成してきたベースの上に成り立っています。

 これは資本主義社会の生成発展期において、不可欠のプロセスではありますが、成熟から衰退か、あるいはなんらかの次の枠組みへの移行が始まっている現代においては、このような産業社会をベースに考えることは既にできなくなっているのを感じます。

 現代社会でおきている経済活動の多くは、かつてのイメージのような国民経済の枠で語れるようなもは、いつの間にか限られたものになってしまっています。
 すでに国家の枠を超えたもの、あるいは国家の規制にとらわれないもので新しい動きがたくさん出ているところに私たちはリアリティーを感じています。

 国富論という言葉の延長で想像される社会的富の蓄積は、もちろんいまでも国家の規制は受けながらも、かつてとは比べものにならないくらいグローバルに、またあるときにはミクロのままでも鋭く世界をかけぬけ、ダイナミックに動きまわるもののイメージが出来上がっています。

 大きな政府であろうが小さな政府であろうが、今、わたしたちの周りで進行している経済活動は、国家と一体とは言い切れないたくさんの中央からはコントロールし難い産業によって支えられています。

 
 そうした飛躍があるからこそ原丈人さんは、「21世紀の」という言葉を頭につけた「国富論」が提起されたのだと思うのですが、わたしたちに「21世紀の」というだけの表現からそこまでの想像をはたらかせることは、やはり内容の予測のつかない読者にはかなり無理のあることであったのではないかと思えます。

 社会的「富」の蓄積という問題が、アダム・スミスのイメージした国民経済をベースにしか考えられない時代はすでに終わっています。
 そして生活からかけはなれた莫大な金融的富の蓄積の矛盾は、ようやくいま暴露されましたが、かといって、それに替わる社会的「富」の蓄積をどこに求めるのかという問いへ答えはまだ見えていません。

 この問題解決の手がかりを『21世紀の国富論』は、たくさん示してくれているのですが、このタイトル表現からそこまで想像することは、やはり至難のわざだったのではないでしょうか。

 今、思うと、このギャップを埋める作業、従来の国民経済学からの脱却、国家の役割は残しつつも、国家に依存しない社会システムの拡大、あるいは狭義の社会資本からソフト面や地域風習まで含めた広義の社会資本の提起こそ、この本の大事な主題にもなっていると思えるのです。

 こうした表現にすることしかできなかったことも、異なる場で発表したものを1冊にまとめた構成であることなど、やむを得なかったことも十分想像されるのですが、

だからこそ、

こうした対話が、とても重要な作業になってくるのだと思います。

 このことをはじめに書いて、ようやく各論に入っていけるような気がしました。
 こうした前提でこれからmiraijinさんと少しずつ掘り下げてみたいと思います。

 

 それではまた。

                     かみつけ岩坊より

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岩坊さま 〜「何処」に立ち返るのか〜

前回の私の書簡タイトルは「〜これから何を『待つ』のか〜」でしたが、その次の書簡をupして下さった直後に、岩坊さんからいただいた「継続できない事情が・・・」の深刻なメールによって、文字通りこのブログへの復帰をお待ちする事になろうとは!思いもかけない事でした。その時点でのご事情から察するには「待っても再開できる可能性はない・・・」に近いもので、それは岩坊さんの恣意、気まぐれではないことがわかるだけに、まだ誰にも開設をお知らせしていなかったことをよしとして閉鎖する事も考えたわけですが、、、
一方、損得利害も関係ないこのメディアのつながりから、いったい何ができるのかという実験的意味と岩坊さんの休止理由もまた別のこと。「待つともなく待つ」ことが私の側では可能であったということでもあります。岩坊さんの、諸問題を解決しての復帰をお待ちしながら私のひとり書簡での継続とするか、それとも閉鎖するもよし、と漠然と半年くらいのスパンを考えておりましたので、思った以上に早い再開を私は喜び、on line上では「何事もなかったように」継続できる事を嬉しく感じています。
これを書きながら私の左脳が何を考えているかといいますと、1対1で取り決めて開始したこんなささやかなブログであっても、どちらかの周辺事情の変化で継続の可・不可が問われる・・・それは「待つともなく待つ」ことができるけれども、「待つ」だけでは解決にならない「契約打ち切り」を宣告された「非契約社員」という立場の方々に象徴される昨今の経済社会の変化・・社会的、国家的な経済事情の在り方の推移を、それぞれの立場で何が考えられるだろうかということです。この往復書簡の発想の発端となった原丈人さんの「21世紀の国富論」を読んで、「自分もなんだか変だとは思っていたけれど、ベンチャーキャピタリストの立場で『会社は株主のものではない』と言い切る原さんの本を読んですっきりした」と語ってくれた方がおりましたが、多くのビジネスリーダーを生み出して来た「資本主義の士官学校」ともいわれるハーバード・ビジネススクールの教授が「ビジネス教育に関わる者は自問しなければいけない」などとの発言で論議を呼ぶなど(昨年11月ジェイ・ローシュ教授(76))の昨今、「なんだか変」だと思いながら「なんとなく」公言できなかったことが「やっぱり変だよね?」と発言できるメディアや関係性を、私たちは目指す事ができるのではないでしょうか。

そんな「なんだか変だな」と思う根拠を、多くの人が信頼するから自分も信頼するというのではなく、深い本質的なところ、また自分自身の内的指針に従って堂々と言葉にできる事においてはかねてよりご自分のブログやmixiで表現をされていらした岩坊さん、「時間をかければものごとなんとかなるもので」とお書きになっていますが、それはまさに「なんとかした」ことによって機が熟したのだと感じ入っています。

さて楽劇「ニーベルングの指輪」ですか!
「ワルキューレ」の雄叫びをあげながら(?)ワクワクと楽しまれたご様子を想像しながら「金銭と契約の社会が破局にいたり、愛の世界へ」という長大なテーマ性が昨今の世界情勢にピッタリであるという事も、今回の「異変」が有史以来の大変化のはじまりの鐘の音なのではないかという点についても全く私も同感です。
以前、岩坊さんと私のそれぞれが、かつて着眼したことがあった事を知って驚いた「エンデの遺言」を発端とする経済の話も引っ張りだしてみたくなりますが、今回は岩坊さんが次に用意されている<「国富論」という言葉から連想される国民経済学のイメージについて>のお手紙を楽しみに、今日はようこそお帰りなさいの挨拶で手紙を閉じたいと存じます。

このブログにコメントを下さっている方がいらっしゃいますね。これから拝読して、そちらにもお返事を書かせていただきたいと思います。

それでは

miraijinより

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未来人さま  ~ワーグナーに触発されて~

あけましておめでとうございます。

予想どうりというか、やっぱり、だいぶ間があいてしまいました。

いろいろ身辺がごたごたしていますが、メールにてご相談を兼ねてお知らせさせていただきましたように、この度は、わたしのほうのまったく個人的な事情により、この往復書簡を継続することが困難となってしまっていたことお詫びいたしいます。

ほんとうに申しわけございません。

ひとつのテーマで、必要なことを必要なだけ書いてみる絶好の機会を未来人さんに与えていただけたことをとても喜んでいたのですが、とても残念です。

と、この間、悲嘆にくれていたのですが、ここにきてなんとか周囲の理解が得られて、この往復書簡を再開する目処が見えてきました。

一時は、やむを得ない処置で、急きょ総論的な内容だけをある程度書かせていただいて、いったん私の方からの書簡を打ち切らせていただくことも考えていたのですが、時間をかければものごとなんとかなるもので、あらためて仕切りなおし、というほどのところまで進んでいたわけでもありませんが、再開させていただきたいと思います。

それで、古い下書きをベースにした話になりますが、毎年、年末というとNHKFMで好例のバイロイト音楽祭、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」が放送されます。

と、いきなり話がそれますが、昨年秋頃から私はワーグナーの超大作、楽劇「ニーベルングの指輪」の感動にどっぷりと浸っております。

以前、私の店のほうのブログで紹介させていただいたものですが
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp/24937752.html
小学館のDVD BOOK 魅惑のオペラシリーズの特別版
「ニーベルングの指輪」全4巻との出会いに端を発しているものです。

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なかなか長時間集中できる時間がとれなかったのですが、11月ころようやくすべて観終わりました。

待ちに待った第3夜 「神々の黄昏」約270分!実に見ごたえがありました。
ナマではないものの、昨年はこのシリーズをじっくり味わえたことだけで十分な収穫のあった年であると思えます。

この超大作は、「金銭と契約の社会が破局にいたり、愛の世界へ」ということが楽劇のテーマとして掲げられています。

これこそ金融危機の勃発した今の世界情勢にピッタリであることも偶然とは思えません。



かつて小鳥の声を聞き分けることのできたあなたの耳に
今のあの小鳥たちのさえずりの声は聞こえないの?

とジークフリートへ問い返す言葉は、そのまま、現代のわたしたちへの言葉でもあります。

わたしは最近、ある親しいお客さんから同様の言葉をかけられて、ふと今の自分の姿に気づき、mixiやブログの世界から一線をひくことにした経緯があります。

このことはこの往復書簡の中断のひとつの背景でもあります。

ワーグナーがこの超大作を通じて投げかけた、金銭と契約の社会から、愛の世界へというテーマは、長い間、芸術の世界だけで語られるロマンの話として受け取られてきたと思います。

それがこの度のアメリカ発の金融危機によって、急に世界中の人々にとって、金銭と契約による世界というものは絶対のものではないということが、初めて現実味を帯びて語られる時代に入ったのを感じます。

前回のサブタイトルを早々に否定するようなはなしで恐縮ですが、50年に一度どころか、100年に一度の大変化が今起きていると言われていますが、わたしは今回の変化は、よく考えてみると有史以来の大変化のはじまりの鐘の音なのではないかと思っています。

ちょうどこの金融危機が勃発したときに、岩井克人さんが2008年10月17日の朝日朝刊にi以下のような記事を書かれていたことを他のネット上のコミュで知ったので知りました。

【貨幣それ自体が実は純粋な投機】というその記事の抜粋は以下のようなものです。

資本主義はなぜ不安定なのか。

それは基本的に投機によって成立しているからだ。

単純にいえば、たとえば自動車会社は、自動車を自分で乗るためでなく、将来だれかが乗るために買ってくれるという予想のもとにつくる。そこに一種の投機の要素が入っている。
また、株式、債券、為替といった金融市場は、実需とはほとんど関係ない。プロの投資家や投資ファンドが、お互いの思惑で売り買いしている。ほとんど投機によって動いている。

主流派経済学は、高い時に買いやすい時に売る頭の悪い投資家は、すぐに市場から淘汰され、頭のいい投資家だけが残るから、市場は安定し、投機は安定につながると主張する。

それは、みなが相手の予想や思惑を探りながら動くことがない、牧歌的な市場だけの話だ。

資本主義全体が投機であり、本質的に不安定だと私が考えるのは、実は資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考えるからだ。

貨幣の存在は、物々交換の手間をはぶき、経済を大いに効率化した。

しかし、貨幣それ自身に、本質的な価値はない。

それを何かと交換に他の人が受け取ってくれるという予想し、また、その人も他人が受け取ってくれると予想しているから、持っているにすぎない。

だから、隠された形ではあるが、貨幣自体が投機なのであって、結局、貨幣の信用は「みんなが貨幣であると思っているから貨幣だ」という自己循環論法で支えられているにすぎない。

そう考えると、貨幣は効率化をもたらすが、半面、大変な不安定をもたらす可能性を持つ二律背反的な存在になる。

貨幣が支える資本主義において、新古典派経済学者が説くような効率と安定の共存はありえない。

今回の金融危機には、この貨幣の問題のエッセンスが入っている。震源のサブプライムローンは、本来、信用度の低い人に貸すリスクの非常に高いローンだ。
それが1件なら、どんな金融機関も引き受けないだろう。
でも、それを大きく束ねて証券化すれば、リスクは薄められて見えるし、さらに多くの金融商品と組み合わせて厚く積み上げ、世界中にばらまくことで、そのリスクは表面から見えなくなった。

こうした金融商品は、多くの人々の間で安定的に取引され、すぐに換金できると思われていた。
あたかも、人々が最も信用する貨幣のように見えてしまった。

多くの人が信頼するから信頼するという自己循環論法が、ここにも作用している。

その隠されたリスクだったサブプライムローンが破綻すると、ドミノ倒しのように、すべての金融商品の信用が失墜したのが、今回の危機の本質だ。

まだ経済がグローバル化していなかったかつての世界恐慌と今回が違う大きな点とは、今後、基軸通貨であるドルの価値が大いに揺らぎかねないことにある。

貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題は、これまで隠されていたが、今後は表に出てくるかもしれない。
   
                                   (ここまで要約引用)

 こうした貨幣そのものの投機性という視点まで掘り下げて今の経済危機をとらえられるかどうかが、今回の金融危機の問題解決をどのような方向にもっていくかを分ける大事なポイントになるかと思うのです。

 もちろん、現実的には行き過ぎた金融資本主義のさまざまな規制を強化することも大事です。でも、私たちの生活を破壊し続けるしくみ、経済的に遅れた国々をさらに貧困と飢餓に陥れるしくみは、そうした金融資本主義の規制だけでは決して解決しません。

 ここで毎度ぶつかる、貨幣・交換・信用といった難問にまで立ち入ることはできません。

でも、このたびの金融危機を金融制度の矛盾としてのみとらえるのではなく、人類が有史以来つきあってきた貨幣というものの本質にかかわる問題として提起されているということは、きちんとおさえておきたいと思うのです。

わたしの頭のなかに、今もずっとワーグナーの音楽が鳴り響いています。

あの超大作とまではいかなくても、このやっかいな問題を、これから未来人さんとのやりとりで、じっくりと掘り下げていくことが出来たならば存外の幸せであると感じます。

原丈人さんの『21世紀の国富論』をベースにさせていただきながら、話をすすめる予定ですが、次回に、この本がタイトルゆえか、そのすばらしい内容が読者に届きにくかった原因を私なりに、「国富論」という言葉から連想される国民経済学のイメージについて書いてみようかと思っています。

うまく書き出せたら、良い年のスタートになれそうです。

では。

                     かみつけ岩坊より

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