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未来人さま ~個別・特殊・普遍~

 前回、『21世紀の国富論』がタイトル表現で誤解され損をしているのではないかといったようなことを書きましたが、以前どこかで未来人さんと話したことがあることですが、本書を企画した平凡社のこの編集者が鋭く且つ稀有な時代センスを持った方であるということは、忘れずに記しておかなければなりませんね。
 もうひとり注目している岩井克人さんの著作も、同じ平凡社の編集者によるところが大きいと感じます。
 内容を簡潔に表現することと、購買動機につながる表現の兼ね合いの難しさのようなものがあったことは十分推察されます。
 その不足部分を、少しでも私たちのやり取りで補うことができればうれしいのですが。

 ところで、櫻井よしこさんとはそんなつながりがあったのですか?
テレビ東京のワールド・ビジネス・サテライトの歴代女性キャスターの人選(人選の力プラス、人を育てる番組の力?)でも感じているのですが、評価の定まった有名タレントの起用ではなく、しっかりとした人材を確実に起用できる番組製作者は、いったいどのような人たちなのかいつも興味を持っていました。
 残念ながら、お会いするご縁の無かったご主人のイメージがまた少し湧いてきました。

 前回は、漠然としたイメージのまま「国民経済学」という言葉を使ってしまったのですが、「国民文学」などといった表現にも同様のことが感じられますが、グローバル化が進んだ現代においては、こうした言葉の持つ意味が大きく変わってきているのを感じます。
 実は、そんな視点で、どうしてもここで挟んでおきたい1冊の本があります。

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水村美苗著『日本語が亡びるとき』
筑摩書房 定価 本体1,800円+税

 ご存知かもしれませんが昨年10月に出た本なのですが、じわりじわりと評判が広がり、田中優子著『カムイ伝講義』小学館とともにこの間、各方面で書評が出まくっている本です。

 これまでの日本語論というと、どうしても金田一一族や、外山滋比古、大野晋などの国語学者、日本語研究者によるものがイメージされますが、本書は一小説家としての立場でありながら、その豊富な海外経験から、専門家以上に深く鋭い考察に満ちた、実に興味深い本となっています。

 この本1冊でも、『21世紀の国富論』に劣らない多面的な未来人さんとのやり取りができそうな本なのです。
 とても重要な視点をたくさん提起されている本なので、書評が注目しているポイントも評者によって様々です。

 たくさんの興味深い視点のなかでも、この間の書簡の流れで、「国民経済学」から「国民国家」、「社会的富の在り方」などにふれると、同列の問題として必然的に「通貨」や「言語」の問題が浮かび上がり、その延長線上にこの水村美苗さんが本書で指摘している「普遍語」「国語」「現地語」という分類があります。

 これまで世界中の多くの人々にとって、地球規模の世界よりも自分の所属する民族や国家こそが、相対的でありながらも普遍世界でした。

 ところが今は英語がインターネットの力を伴ったことにより、これまでのいかなる言語よりも、普遍語として通用し続ける要因を得たことになってしまいました。それによって水村さんは「国語」や「現地語」の深刻な危機を招くと指摘しています。

 このこと自体は、それほど独自な指摘ではなく多くの人が語っていることなのですが、その指摘に至る水村さんの論拠の展開がとてもすばらしいのです。

 今でこそ英語が普遍語としての地位をもっていますが、第二次大戦前までは、ヨーロッパでは英語、ドイツ語、フランス語が三大言語としてほぼ対等といっても良い地位を持っていました。
 それ以前は、ラテン語こそが普遍語としての地位を持っている時代が長く続いていました。その時代にあっては、イタリア語、フランス語、ドイツ語などは、それぞれの地方だけの現地語にしか過ぎなかったのです。
 東洋においても、漢語こそが普遍語としての地位を長く持っており、日本でもつい最近まで公文書は漢文でなければなりませんでした。

 このように「普遍語」というのは、時代とともに移りかわるものなのですが、こと「英語」に関しては、インターネットの普及とともにこれまでとは次元の違う普遍語の地位を得ようとしているというわけです。
 
 ところが、ここからは私の意見なのですが、アメリカの地位の低下とともに基軸通貨としてのドルの信用が無くなることが確実になった今、通貨に限らず、言語においても同様の現象が起こりうるのではないかと感じるのです。

 多くの場合、「普遍語」としてそれが通用しているのは、その言語が合理的であるかどうか、美しい言葉であるかどうかなどの理由によるものではなく、ただ単にそれが多くの人によって使用され信用されている合理性があるということのみによるのだと思います。

 同じことが、お金についてもいえます。
 
 ドルが基軸通貨としての地位を持っているのは、きっかけはアメリカの経済力の目ざましい発展であったかもしれませんが、金とドルの交換を停止したときから、ドルが基軸通貨としての実力があるから流通しているのではなく、ただ国際決済手段として信用されているからというだけの理由でその地位を保っていたということが明らかになったのです。

 さらにパソコンのOSなども、これと同じようなことが言えますね。

 いかなる分野においても、ものごとは「普遍化」の方向にベクトルが向かっているように見えますが、「普遍」の地位を得たものは、必ずしも「合理的」根拠をともなったものではないということが、わたしたちは眼前に起きている歴史から知ることができます。

 こうした流れで考えると、私は水村さんほどは「日本語が亡びる」危機はあるものの、それが不可避の流れであるというまでの危機感は感じません。 もちろん、水村さんの指摘は、そんな単純なことではなく面白いのですが。

 社会が生産活動によってなり立ち、交換を必然とする限り、あらゆる事柄が共通化といった指向性で「普遍化」していくプロセスは不可避なのですが、かといって個別・具体性が無くなって良いというものではありません。

 「国語」「現地語」は、その大半は他の現地語や国語、あるいは普遍語へと翻訳可能なものですが、翻訳不能なものを含んでいるということが「小説」などの個別性を語る世界でない限り、ほとんど意識されなくなってしまっています。
 たしかに、その拡大便利さや見かけの合理性に押し流されてしまいそうな勢いには、とてつもない抗しがたい力を感じています。

 私の話は、いつも次元の違う概念が交錯してすみませんが、前回触れた「国民経済学」の実態が把握しにくくなった現代、虚構の上になりたったグローバル化が加速した現代において、これからの社会を考える上では、「普遍化」への一方通行のベクトルから、いかに「個別性」と「特殊性」を保持した発想、あるいは意思をもって「普遍化」のベクトルを押しとどめて、個別・具体性を強化することが、とても難しいことですがこれからの時代は極めて大事なことであると思うのです。

 今後も世界各地で起きる紛争の解決を考えた場合でも、国連などを中心とした世界的協力関係は、ますます求められるようになりますが、異なる宗教やイデオロギー間の国際協調をはかるためには、安易な普遍原理を求めることよりも、個別・特殊な事情をまず知り、尊重することからはじめなければなりません。

 そんな指向性の大きな転換が、今はじまろうとしているのを感じます。

 原丈人さんの『21世紀の国富論』も、そんな視点からの提起に満ちています。

 ときどきこの往復書簡で名前が出てくる『アクエリアン革命』も、なんとなく普遍的なテーゼや概念から発想するものではなく、個別・具体性の追求を優先することによってこそ、起こりうるものに見えます。 

 今回のタイトルに入れた「個別」「特殊」「普遍」という概念が、これから各論をぐるっとめぐらせて、また最後にここへふたたび戻ってこれたらと思います。

 交換とともに「個別性」が捨象されていく必然と、 質(価値)を量に換算しないと交換が成り立たない必然に対して、

交換し難さを保持することで「質(価値)」の固有性が保てることが、あらゆる領域でこれから問われてくる時代に突入したのではないでしょうか。

厳しい時代であるには違いありませんが、なんとも楽しみなことではないですか。

今日のところはこの辺で、ではまた。
 

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