21世紀の国富論

未来人さま ~消費主体から生産主体へのつづき~

この往復書簡は、様々なキーワードが交換されたりスルー(後回し)されたりしながら、いつまたからみあうとも知れず交わされ続けるものと思いますが、それに甘えてつれづれなるままに前回の続きを書きます。

実は5月の連休明けに、今の仕事をしてきた私としては画期的な6日間の休みを取り、奈良の室生寺からはじまって、二上山、葛城山方面、吉野の山から熊野古道にかけての旅に行くことを決めました。

それで丁度ETCの割引と政府の購入助成金をあてにして、車に私もETCを取り付けようと思ったのですが、助成制度枠が拡大されたとのニュースがあっても、商品が市場になく、現在では予約すら受けてもらえない状態なので、5月中旬の旅行のETCの利用はほぼあきらめています。

そんな矛盾を感じているところに、今度はエコカーなどへの車買い替ええの助成制度がまた出されたとのニュースが入ってきました。

とことん、まだ余裕のある生活者への助成ばかり打ち出してくる政策に、ほんとあきれ果ててしまっています。

ETCをあてにしていた身でありながら、もう間に合わないとわかったら、こんな無駄な助成には意地でも乗ってなるのもかと見栄を張っている私でありますが・・・・

どう考えても出てくる施策はどれも、市場の消費刺激による下支えばかりで、生活破綻の危機に瀕している人びとへは、まったく目が向いていない感じです。求められる産業構造の転換を促す施策もほとんど見られないまま、従来のばら撒き予算の延長ばかりが出されてきます。

これらのことからも、今の政府は、市民を企業の生産物の恩恵をうけるだけのただの「消費者」としか見ていないことがよくわかります。

私たちが求めている内需の拡大とは、このようなもののことを言っているのではありません。

企業の生産物を買ってくれる外国の市場が縮小したから、国内で消費してくれるようにもっと市場や消費者を刺激することが、内需拡大につながるものとはとても思えません。

ここからはわたしの個人的な発想の表現になりますが、内需拡大のためには、「消費者」的な市民の購買力を高めることよりも、「市民」が「消費者」的な立場よりも「生産者」的な立場に徹するよう変化していくことこそが、真の「内需」拡大、強い国民経済を築きあげていく条件であると考えます。

この「生産者」としての市民の姿こそ、『21世紀の国富論』のこれからの時代の社会的富の実態を語るキーワードではないかと思うのです。

会社勤めで得たサラリーを消費にあてることでなりたつ市民生活ではなく、会社勤めにかかわり無く、市民生活そのものが生産的活動であることを認識して、生活を組み立てなおすことこそが、強い社会基盤(経済基盤)を育てるもとなのではないかと思うのです。

私の本職である書店の業務をしていても、つくづく感じるのですが、本そのものを読んでくれる読者を育てる活動はたしかに大事ですが、読書そのものを目的とした読者に頼るよりも、生活上や仕事上の目的をはっきりと持っている人のサポートに徹した方が、実際にはより大きなお金が動くのです。

実際に純粋に本が好きだと読書家を自称しているひとたちよりも、なんらかの自分の専門領域を持っている人のほうが、手段としての読書ではありますが、はるかに多くの本を買い、実際に消化している場合が多く見られます。

よく誤解されてしまうのですが、教育などの現場で読書の習慣化などを目指した取り組み事態はとても大事で、すばらしいことです。そのことは否定しません。

でも、その場合でもただ「読む」ことよりも大事なことを忘れないように心がけてもらいたいものです。

この「手段」としての読書とおなじく、「手段」としての消費こそが、「自己目的」としての読書や消費を上回る力を持っているのであり、「真の内需」拡大の根源的原動力になるのだと思います。

本屋の仕事をしていながら、まったく申しわけないのですが、つい大事なお客さんに対して、そんな本ばかり読んでいないで自分自身の直面している問題に真剣に立ち向かうほうが大事でしょ、と言いたくなってしまうことが多いのです。

少し端折って結論だけ書くと、強い地域社会や国家を築くには、生産されたものの量を増やすことや、それらを消費する購買力を高めることを目的とするのではなく、それらの担っている市民ひとりひとりが、「生産者」「創造者」としての立場で市民生活全体を組み立てなおすことこそが求められているのだと思うのです。

 わたしは『21世紀の国富論』をそのような視点で読み解いていきたいと考えています。

 この間のニュースを見ていて、どうしてもこのことを往復書簡のなかにいれておきたく書いてみました。

 つぎは、また元の挫折していたテーマに戻ろうと思っています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

未来人さま ~市民は消費主体であるよりも生産主体~

また長く間があいてしまって申しわけありませんでした。
新学期準備の忙しい時期に入ってしまったり、母親が二度ほど入院(軽い病気ですが)することになってしまったり、なかなか書けない理由があったのですが、これだけ間があいた一番の理由は、私のグチャグチャ頭が、自分の欠点ということだけではなく、これからの時代の思考構造にとってグチャグチャ構造がそう悪いものではないのだとおいうことを書こうとして泥沼にはまってしまっていたからです。
どうもこの泥沼は、簡単に抜けられそうにないので、思い切って話題を変えて、『21世紀の国富論』を語る上でのキーワードである「社会的富」の実態に関することを今回は書かせていただきます。
また、うまくまとめられそうにありませんが、つらつらと書いてみます。

これは先日、あるひとと会話していてうまく説明できなかったことです。

現代においては、生産と消費が分離させられていることをあたりまえのように感じているように思えますが、その問題が今の不況打開策を語るときに、さらに矛盾を深めることにつながってしまっているのを感じます。

エコノミストは、この経済危機を脱するには、まず冷え込んだ消費マインドを刺激してやることが大事だという。
定額給付金はそうした意味合いがあるとのこと。

悲しいばかりの発想です。

今の政治の流れは、その悲しい発想を変えることができません。

話のなにがかみ合わないのでしょうか。
発想のどこが違うのでしょうか。

確かにこれまでの経済の発展は、消費の拡大によって支えられてきました。
内需の限界は、外需の拡大によってささえられてきました。

ところが今の世界的な経済危機の現実は、これらの市場の拡大という錬金術が、すでに10年、20年前から破綻していたことを気づかせてくれるものです。

金融工学を駆使してあらゆるところから資本を集めて、実質は先進国内部ではなく途上国の市場拡大でささえられてきた経済発展。

この現実をもっとよく見ておかなければならない。

アメリカの購買力が衰えている現実、途上国の経済発展が鈍化している現実、それらは不況という景気循環の規模の大きなものではない。

数字だけをみても、内需の拡大がいかに大事であるかは誰もが気がつく。

でもそれは消費マインドの刺激で解決できるような問題ではない。

ここからの説明が、どうもまだ整理できない。

突破口は、知恵を出せばいろいろなところから開けるものだろうけれども、これからの時代の「内需」ってなんなのだろうか、といった疑問がわくのです。


 これまでの社会では、「市民」「家庭」は消費単位、「企業」は生産単位としてとらえられ、企業が技術革新の下で一定時間に効率よく大量の「物」を生産し、「家庭」に供給することが「豊かな社会」をつくることになると考えられてきました。

 この「市民」「家庭」を消費の単位、「企業」を生産の単位と考える限り、真の「内需」の拡大は生まれないと思います。

 経済学がとらえる消費主体を「市民」「家庭」ととらえ、企業のみが生産主体でるとする時代は終わり、「市民」、「家庭」こそがまず生産の主体であることに気づいても良い時にきているのではないでしょうか。

 
父ちゃんは会社で働いたのだから、家ではゴロゴロしていていい社会は終わりはじめていのです。

企業はイメージアップのために社会貢献活動を取り入れる時代は終わるのです。

社会科学的な「個人」ではなく、また肩書きや身分や資格で約束される社会ではなく、裸のひとりの人間が、目の前の人に対して何が出来るかが絶えず問われる社会・・・

これは決して能力主義への道ではなく、すべてのひとが生きていくための本源的生命力を取り戻す過程なのだと思うのですが、このことはもう少し詳しく説明を加えなければならないかな。

気が向いたらまた続きを書きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

岩坊さま 〜「タイトルで損した」について〜

「21世紀の国富論」について、まさに私がこの往復書簡ブログをご提案するに至った経緯を言い表しているような解説をありがとうございました。そうなんです。私自身、ずっと平積みになっていた「21世紀の国富論」を書店にいく度に目にしていた筈ですのに、おかしな偶然から糸井重里氏の「ほぼ日」での糸井さんと原さんの対談を読まなかったら、永遠に手にとらなかったなかったと思います。
パソコンの前で笑い転げて、次の日には本を手に入れていました。そして岩坊さんをはじめとする精神文化が近いと思われる方々に「ぜひ『ほぼ日』を読んでから『国富論』を読んでね!」とメール差し上げた全員が「読まずにいられません!でもこの本はmiraijinから聞かなかったら手にとっていなかった!」と全く同様の反応を返して下さったんです。もうびっくり。

原丈人さんほど小気味よく盛大にあのようなご自身発想を実現している方は少ないですけれども、それ以上に普段の仕事領域・文化圏・生活圏が同じような領域にいないために出会う事が難しいとしたら。。。
あっちの領域にも、こっちの領域にも、自分の仕事や生き方を通して同様の未来を構想している人々がいるんだということを、個人のブログで訴えるよりもこんな往復書簡の形で表現できたほうが、ささやかだけれど面白い広がりを見せるかもしれない。。と考えた次第なのです。こうして実現できて嬉しいです。

「タイトルで損した」については私もほぼ同意見ですが、たぶんこのタイトルは編集者からの発案ではないでしょうか。何事か過去の偉大なものに「なぞらえる」ことで「古くて新しい命題を浮き上がらせる」「新しい領域を拓く」「パラダイムを広げる」という手法がとてもうまく働くという事もあると思うんですね。ただ、世代によるのか感性によるのか個々の意識や文化の違いなのかは分かりませんが、それが全く反対の受け取り方になってしまう場合もある。そのことで思い出したことがあるので、極めて私的なことですけれど書いてみますね。
1980年、日本のTV局で始めて「女性のアンカーマンを起用しよう」という英断をした日本テレビ(NTV)が、当時NBC東京支局でオペレーションマネージャーをしていた亡夫にそれを提案し、亡夫は所属していた日本外国特派員協会のメンバーであった桜井良子(櫻井よしこ)さんに打診。その時、桜井さんがそのオファーを受ける気になったのは「日本のバーバラ・ウォルターズになって下さい。」という亡夫のひとことだったということは櫻井さんご自身が本にも書いていらっしゃるのですが、当時はテレビと言えばジャーナリストの目から見れば浅薄なメディア。周りの方々は反対したそうです。しかしその時期の桜井さんにとってバーバラ・ウォルターズはインパクトの強い存在。NBCの「TODAY」という番組の視聴率を引き上げ、大統領であろうと誰であろうと何よりも鋭い持ち味でインタビューしていく。結果日本テレビの「きょうの出来事」を櫻井さんは90年代まで続けるという快挙をなさったわけなんです。この先は笑い話で読んでいただきたいのですが、私が亡夫と始めて出会ったのは83年。彼がNBCを辞めて起業した後です。彼が起業することを決断した事に大きく影響したのはマリリン・ファーガソンの著書「アクエリアン革命」で、この内容はまさに原丈人さんのような存在とも繋がる未来論でしたし、私の周囲の人々も絶賛していた本なのですが。。。お互いの情報を知った後にはじめて顔を合わせた時、最初に言われたのが「日本のマリリン・ファーガソンになりませんか?」だったのです。ただしその時の私の反応は・・・「え?違います。私は誰にもなりたくない」・・・つまり、良し悪し抜きにこれは今回、岩坊さんが書いておられる「国富論というタイトルの是非」に似ていると改めて思ったというわけです。亡夫はそれ以外にも「もうひとつの永田町」という考え方で勉強会をしていたり(今の政治では世の中は変わらないという意味でしょう)、その頃は遠い将来(90年代)に奇縁が巡って結婚することなども想いもよらなかった時期なのですが。

さてさて「21世紀の国富論」にもう一度戻りましょう。「国富論」という言葉から連想されるものの枠組みを遥かに超えた問題提起や諸テーマの解決の手がかり・・・各論の糸口、想像の切り口は本当に様々あると思います。今日は長くなってしまったのでこのへんで。次なる問題提起を楽しみにお待ちしています。それではまた。

miraijinより

| | コメント (0) | トラックバック (0)

未来人さま ~タイトルで損した『21世紀の国富論』~

 

毎度、「待って」いただいてありがとうございます。

 前回、予告したことについて書きます。

31909577

 私のみならず、多くの人がどうやら『21世紀の国富論』というタイトルが誤解を生みやすいことによるのか、この書名を見て実際に手に取る行為にまで至らなかった例がとても多かったことを未来人さんの話で知りました。

 これはどうも「21世紀の」と大事なことわり書きをしていながらも、多くの人が「国富論」という聞きなれた言葉にイメージが引きずられてしまったことによるのではないかと思います。

 私たちが「国富論」という言葉を聞くと誰もがアダム・スミスのそれを思い浮かべますが同時に、「国民経済学」をベースにした国家論をなんとなく思い浮かべているような気がします。
 これは当然なことなのですが、現代の私たちは、経済知識の有無にかかわりなく、なんとなくこの経済観は古いものと感じるようになっているのではないでしょうか。

 私は漠然としたイメージで「国民経済学」という表現を使ってしまいましたが、主に産業革命以来の近代資本主義は、鉄鋼や石炭、石油などの資源や鉄道、運輸、通信などの基幹産業のインフラ部分を国家をあげて育成してきたベースの上に成り立っています。

 これは資本主義社会の生成発展期において、不可欠のプロセスではありますが、成熟から衰退か、あるいはなんらかの次の枠組みへの移行が始まっている現代においては、このような産業社会をベースに考えることは既にできなくなっているのを感じます。

 現代社会でおきている経済活動の多くは、かつてのイメージのような国民経済の枠で語れるようなもは、いつの間にか限られたものになってしまっています。
 すでに国家の枠を超えたもの、あるいは国家の規制にとらわれないもので新しい動きがたくさん出ているところに私たちはリアリティーを感じています。

 国富論という言葉の延長で想像される社会的富の蓄積は、もちろんいまでも国家の規制は受けながらも、かつてとは比べものにならないくらいグローバルに、またあるときにはミクロのままでも鋭く世界をかけぬけ、ダイナミックに動きまわるもののイメージが出来上がっています。

 大きな政府であろうが小さな政府であろうが、今、わたしたちの周りで進行している経済活動は、国家と一体とは言い切れないたくさんの中央からはコントロールし難い産業によって支えられています。

 
 そうした飛躍があるからこそ原丈人さんは、「21世紀の」という言葉を頭につけた「国富論」が提起されたのだと思うのですが、わたしたちに「21世紀の」というだけの表現からそこまでの想像をはたらかせることは、やはり内容の予測のつかない読者にはかなり無理のあることであったのではないかと思えます。

 社会的「富」の蓄積という問題が、アダム・スミスのイメージした国民経済をベースにしか考えられない時代はすでに終わっています。
 そして生活からかけはなれた莫大な金融的富の蓄積の矛盾は、ようやくいま暴露されましたが、かといって、それに替わる社会的「富」の蓄積をどこに求めるのかという問いへ答えはまだ見えていません。

 この問題解決の手がかりを『21世紀の国富論』は、たくさん示してくれているのですが、このタイトル表現からそこまで想像することは、やはり至難のわざだったのではないでしょうか。

 今、思うと、このギャップを埋める作業、従来の国民経済学からの脱却、国家の役割は残しつつも、国家に依存しない社会システムの拡大、あるいは狭義の社会資本からソフト面や地域風習まで含めた広義の社会資本の提起こそ、この本の大事な主題にもなっていると思えるのです。

 こうした表現にすることしかできなかったことも、異なる場で発表したものを1冊にまとめた構成であることなど、やむを得なかったことも十分想像されるのですが、

だからこそ、

こうした対話が、とても重要な作業になってくるのだと思います。

 このことをはじめに書いて、ようやく各論に入っていけるような気がしました。
 こうした前提でこれからmiraijinさんと少しずつ掘り下げてみたいと思います。

 

 それではまた。

                     かみつけ岩坊より

| | コメント (0) | トラックバック (0)